寛容さへの嫌悪

 ナショナリスムともある部分で結びついている感覚のはずなのだが、
要は寛容さが、他人の感覚的領域を自分が大風呂敷を広げるための下地と
しかみなしていないから発揮されている場合、大抵の女性はその寛容さを
発揮している主体を「気持ち悪い」と感じるのじゃないか、などということを
考える。(大体、仮に神経工学が発展しており、ヒトの行動と内在する思考に
ついて昔より多くのことが解るようになっているとしても、それである一者が
広告代理店に下駄を履かせられて「人間の意識の構造を科学的に解明する」など
ということはありえない。みんなそんなことは解っているのに引っ張るわ引っ張るわ、挙句2年待たせて絵に描いたような回答をあてがって、これのどこが対話
なの、と思う)。

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 「幻のアフリカ」と「批評と臨床」を購入する。居ながらにして旅行する、とか、それが視覚表現や意識にどう影響を与えるかについて、ドゥルーズが言ってたことを少し思い浮かべようとする。

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 外に出て考え事をしていたときに、雨もそうなのだが「水」自体が何かの
符牒になっていたら嫌だなぁと思っていたのだが(アジサイについて書いた
あたりからチラホラチラホラ「水」っぽいことについてほのめかししている
人が増えた)、また内田樹先生のブログにいろんなことがちょっとずづパク
られているのでイラッとくる。そういうこと
を、客観的に確認できる場合にはしっかり話すことにしたのだが、かたや60
の男がこれで原稿料貰ってて、その半分の年齢の私がずっと嫌がらせに遭って
いるってふざけた話よねぇと思う(カーナビ付けたりETC付けたり、体調
不良をメンテナンスするために色々したいことがあるのに)。でも、一時期に
比べてこの人たちも「元気が無い」というか、宗教団体の変な手口を使って
えせ言論を振りまいてることが客観的に見てもばれてきているので、どうにか
位相を変えて、まともに筋が通るようにしたい、と思う。