意識と身体

 オーソドックスなところに立ち戻って、早寝早起きがどれくらい
しっかり出来るか、試みてみようと思う。

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 創価学会がらみの嫌がらせをしてるらしい方から、著名人に監視されている自分に酔ってるのかと問われる。
 が、私は本当に、糸井重里については著名人だからといって何の感慨も浮かばないし、テレビで興行を打って樋口加奈子みたいな女優(「何でもやる人」というイメージしかない)と生活しているシーンをばら撒きながら、精神安定剤代わりに母性タイプのクリエーターと組んだり、あからさまにロリコン臭い口調で犬をかわいがったりしている姿から「もと中核派で80年代臭いビョーキを経由したあと、創価学会に恩義を売っている人」のはた迷惑さしか感じない。汚ねーな、という気がする。こんな人にパクられるのは本当に迷惑なのだが(要は何でもやる人の添えものなんだよね、という認識を持っている人、結構多いと思うのだが)。
 これが、「吉本隆明に関心を持たれて著作にブログを引用される」とか、「赤瀬川源平に美術館で話しかけられる」とかだったら(しないだろうけど)、多分ここまでイライラしていないというかむしろ凄く嬉しいし、そういう時に創価学会系の媒体に書いているとかいないとかいうことはどうでもいいのだが、そういうことを本人はわかっているのだろうか。
(私にとってこのことは絶対的なんだけれども、「共同幻想論」も「マスイメージ論」も「言語にとって美とは何か」も、聖書がらみの何冊かの本も、別に誰から読めと言われたわけでもなく読んでいた時の自分が居るのだ。あと、スターリン遠藤みちろうと対談している時の吉本隆明という人が何を言っていたか、とか。それと同じく、「超芸術トマソン」とか読売アンデパンダン
関係の本とか、アクションについての本とか「父が消えた」とか、そういう本の赤瀬川源平さんのことは自分の中でしっかり像を結ぶのだけれど、糸井重里という人は私の中にもともと何もない)。
 小林秀雄が「批評にとって作品は、それに成り代わることが出来ない見果てぬ夢である」みたいなことを書いていたと思うが(凄くいい加減な引用)、コピーライターは最初から最後まで消費活動に何の必要もない。そんなのインターネットの評とか単なる口コミでよいのだし、ちゃんと読まなきゃいけない本はそれはそれでまともに商品価値を持っている。単に面白がる分には人が犬と結婚している話のCMがあってもいいと思うのだが、普通に考えたら妻が犬の嫁で飼い犬が自分に性接待している女のメタファーって相当気持ち悪い。本人を目の前にしたらゲロしか出ないレベルの気持ち悪さ。感性のなれの果てという気がする。
 ちょっとした拍子に、昔この人のコピー教室か何かに通っていて、もめて焼身自殺した人が居るという記事を読んでしまい、すごーい不愉快な気分になる。この人が売り出したアイドルとかも、挿絵のパクリで差し替えになっているし、普通の呪いとかが呪わしいのとまた違った意味で呪われた感じで薄気味悪い。同じ位の年代の男でも親に捨てられたことと田舎出身だったことがコンプレックスになっていない人が沢山居るということを周りがちゃんと学習させてやるべきだと思うのだが。本当に、60代の男が器用貧乏みたいに妙な寛容さを振りまくことに対して、異常さと穢さしか感じない。
 書きながら、人って絶対この人は嫌い、というのがあるな、と思う。この人に対する私の嫌悪感って、どちらかというと横山ノックとかのイヤさと同じなのだ。

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 ツイン・ピークスが好きで、デヴィッド・リンチってフィラデルフィアの人なのだと知る。(リンチ自体はそんなに好きなのか分からないのだが)。

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 原爆もそうだが、日本は実験された過去の国、という省察から始めようとして、記憶をたぐると手ひどく洗脳される以外、頭がなかったような気分になってくる。女性は古儀式の偶像を子供のような気がするといって、いくつも懐に握り締めていた。夢が香る、瞬間は夜の間中星の隙間に小さく折りたたまれていて出てこない。それなのに夜を過ぎる時間が来ることの原理がわからない。