耳鳴り

 が若干し、何だか気持ち悪いのだがどうにか気分もよくなったので、
懸案だった知人のカルチャーセンターについて色々と考える。
 チラシを作りながらこれはカルチャーセンターではないと思うのだが、
淡々と将来的に、ゆったり落ち着けてご飯を食べたりミシンを回せたり
(女性講師候補が一人居るがもっと増えるといい気がする)、
同時に電磁波対策と電波系(と、呼ばれているもの)の分析が出来る場
であってもいいんじゃないか?と感じる。大体、サブカルのどのあたり
が反動化し、人に危害を加えたり妙な情動を重んじたりしているのか、
解ってくる。なるほど。でも感覚の素材なんてみんなそんな形をしていない
のだ。
                ♪
 書きかけの小説の案みたいなものをどう活用するのか。(私は未だに
「リヴィエール」を書きたいと思っているのだが、何か意味に汚染されて
ない一瞬みたいなものがないと頭の中で景色が動かないのに、それが確保
しづらい。こんなもの究極的には自分の女性性とか河の河らしさとか子供
の子供らしさ、中華料理屋のトポスなんかと全く結びついていないだろう。
少なくとも書き留めたいと思ったときに、私はそこ、河べりに居るわけでも
ないし中華料理屋に居るわけでもないのだ)。
 斉藤義重が好きなのは何となく鬼の気配がするからで、鬼についても書きたい
のだった。
 昔「ドグラマグラ」を誰かが評した言葉に「夢野久作の小説の中にあるものは、
ちゃんとものとしての気配を持っている」というのがあって、それは本当のことで、
でも本を読みながら、私はそこに居たわけではないのだ。