風がびゅうびゅう吹いているが、歩きながら考え事をしてる
とそれが途切れ途切れにならず、そこそこまともな連続性の上
に乗っかれるようになったと実感する。
 思考に対して<いい><わるい>というのが結局どういうことなのか
考えていた。空が高くて気分よく歩けるが、通りとか街並みがずっと
低いところにあるように感じられる。

 外側に赤いフリルのついている金魚鉢の底にある澱を金魚の背の
方向から眺めていて、澱を見下ろす金魚からすれば微細な部分が全部
感じ取られているのだろうと思う(金魚がある部屋の中を、それを数え
込みながら全景として見ている)。


 「リビエール」を、途中まで印刷してある女性に見てもらおう、と思う。それを
思い浮かべたとき、私は殆ど止まっていた気がするし、頭の中に思い浮かべた
イメージをなぞっているうちに、本当に自分に女の子供が居るような気がして
ちょっと笑えたのだが、基本的にだからなに、ということがないのだった(ただ
書き上げたい、という気持ちがあるのに、何となく精神的に自由じゃないことの
苛立ちがあるだけで。本当だったらもっとリアルに母親にとって女の子供が自分の
子ではなく龍の要素を持っているとか、鳥の青い羽がちょっと外界に対してきつい、
何らかの抵抗を示す、ということを書けただろうと思う。それから、約10年前に書いた
「メドゥーサと醜形恐怖」という作品の続きも、結局書けてないことを思うのだった。
血の泡からペガサスが出てくるシーン、その中に浮かび上がる希薄だけれどしっかりと
流れる愛情の景色みたいなものに固執しながら、やっぱり書きはじめる前にやめてしまった
のだ。異様な高ぶりと一緒にいつも世界全部を投げ捨てる女性、というのがテーマであり、
それはメドゥーサで、やっぱり自分のきつくて持ち重りのする感情の裏面に出ることを夢
みている、それが叶えられるときに、血からペガサスが出てきても、周囲の風景の平穏なのに
吸われて大きいこととしては気づかない、みたいなイメージを思い浮かべていた。その時点で
メドゥーサは単なる人に戻って、頬を何となくこすり、通り道の半ばにある店で口紅を一本
選ぼうとする、という話だった。完全に文体は意識の流れ)。


 機械化された精神的共動性と共時性(といわれているもの)がどう結びついているのか、
日常にどのように突出するのかについて考えていたのだが(それを書いたもので重要なのは
たぶんユングとパウリの往復書簡だ。これも書くのは繰り返しになる)、その出来事を分析
出来る脳科学者は本当に居るのか? というより、脳科学の先端研究が本当にそれを目指して
いるかもいかがわしいし、神経工学が共時性(といわれているもの、共時性と神話的な像と
いうものはすべからく怪しい)の内的なルールをすべて解き明かすとはあんまり思えない。
 私は大槻教授の講演を聴きに行きたかったなぁと思う。
(神話は本当に、人の心理と視像の起源を探るための道具で、しかもそれは氷山の一角で
あり、抽象的な数理空間と科学の自明性にはそれそのものの自律性があって、まともな科学者
は両方の結び目として働くのだが、そういう意味での「まともさ」を科学者が全面放棄するの
なんて一瞬のことで、しかも容易い。そういう人がすごく陳腐な存在なのに解体もせず時空に
残存するということ自体、科学に対する冒涜じゃないのかと思う)。