通勤電車の中で/真似と病理

 読む本でも何でもないなと思いながら、「ホロン革命」を。
読めば読むほどいかがわしい、というか、アーサー・ケストラー自身が、科学者ではなかったと記憶していて、実際やっぱり科学者ではない(本当に印象論なのだが、フリッチョフ・カプラとかグルジェフとかそんな系列の人の仲間であり、ニュー・サイエンスというジャンルがどういうわけか出来た中での結構カリスマ性のある人、だったんだと思う。ホロン革命は初めて読むのだが、以前ケストラーを読んだときに「こんなもん読む理由も暇もない」と思っていたのだった。でもすごい面白い。前半すべて病気の分析なのだ。それから環境とか大洋感情に
ついて書いてあるところは全部ホリスティック医療とかの流れに通じる。そして一番考えさせられるのは、そういう人が最後服毒自殺しているところ。以前神秘主義とかそういう傾向の人って、全く日本になじまないだろうし、ニューサイエンスが何だかよく解らない気がして読みきらなかったのだが、こういう衝動を三つ生き過ごしてるタイプの思想家って多いのだろう(もう少しファンタジーとか寓話的なものに傾いている身として、単に興味ぶかい)。
 やっぱりジャーナリストなので、冷戦構造下の変なオペレーションについて相当詳しく書いている。要は警察がらみの妙な挙動や法規制できないタイプのストーカー行為に使われている技術は、こういう構造をそのまま韓国と日本の軋轢のなかで焼き直ししているものじゃないのか、と思う。その中で、汚穢とか人格の異常性、不審さ、不快によって限定されているものと、そうでないもの、まともさやある程度の清明さについてコントラストをくっきりさせていきたい、と思う。

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 私は、小谷野敦さんという「もてない男」の著者の方のブログを愛読してるのだが(というのも、ある種の「界隈」での何というか身内庇いとかそういうものの構図がよく解るような気がして)、たまたま小谷野さんが書いていた「被害妄想」についての記事を読んで、これはウソだよね、と思う。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/

金井美恵子さんの小説を読んだときに、「あの小説は私の作品の盗作だ」という「妄想」を持った女性から電話がかかってくる、というものがあって、その時は関係妄想の人をテーマにして書いた作品なんだろうと思ったのだが、日本文学(芸術全般なのかも)のもう少し陰湿な事情を色々見聞すると、ある種の逆差別が潜在的出来レースに伏流していて、そっちの方がよっぽどラカンの言うような被害妄想者の言動に近いんじゃないかと思うのだ(エメのような感覚欠損者の自己称揚とか、フロイトが言う自分が叩いた子供より先に泣くような態度とか)。今回芥川賞を取った方々と別にそれは関係ないけれど、それを論じる側がこうして先手を打って自己去勢しなきゃいけない状況というのもどうなのかなぁと思う。そこまでして守らなければいけない欠格って何なのか。あんまり考えたくない、やっぱり差別的なマトリクスと皇国主義的なマトリクスの二重構成とか、せめぎ合いみたいなもののことが思い浮かぶ(昨年、そういうことを言う人たちと例外的に話をしたのだが、多分金輪際一生関わらないだろうという気がする。少なくともそれが十分言語化されて、実際に神経に食い込まなくて済むくらいにまで練らないことには。特定宗派の逆差別と、出自へのこだわりの二重化にチープな新興宗教の教義が響いてしまうと、恐らくどうにもならないのだ、と思う)。

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 真似と病理の問題。

 もう見ただけでゾクッとくるというか、自我機能障害、
なんだと思う。この件に関して結構思うところあって調べ
たのだが、好意の表明として真似る、とかじゃなくて(それもキモいけど)、特に語彙とか好きな食べ物とか、そういう個人ではどうしょもしようのないものまで真似てくる場合、それをする人間の方が、何かヘンだとしか言えないんじゃないかと
思う。たまたま見ていたテレビに出ていた脳科学の評論家とい
う方が、遺伝子の問題でやる気が起きないタイプの人が居る、
という話をしていたのだが、これ本当に遺伝的にヘンなんじゃ
ないか、と思う。