嗜好品として

コーヒーだけはどうしても手放せず(美味しいコーヒーは何故あんなに美味しいのだろう)、甘いものも食べたいのだが、タバコとお酒の重篤な影響というのが分かりきれず、そういう感覚で接してしまって却って悪い事をしたかな、と思う場合があった(何というか特にタバコは完全に体質に合わないのだ。人が吸っててもだいじょぶなのだが)。禁煙運動に対してファシズムは(人によっては)言い過ぎじゃないと思う。文学者とかはなから人を潰すような権限のない人が言うなら分かるのだが。医者の癖に禁煙をファシズムとか言ってると、何かもっとやばい論理的破綻を隠しもってる人の気がしてしまう。 ♪
個人的に養老孟司さんに恨みがあるわけでも、読んで違和感だけしかない訳でもないのだが(医者のシニスムが嫌いなのと昔「都市という廃墟」の後書きを読んだ違和感については以前書いた)、明らかに「バカの壁」以降色んな文脈がおかしく、この本が凄く売れたことをとっかかりに医療行為の暗部とか、何か変な利権とか派閥みたいなものの横暴が解放されてしまったのではないかという気がしている。(気になって調べてみたら、「死体は語る」という医療関係のベストセラーが、単行本とはいえ60万部でベストセラーだったのだ。私はこの本リアルタイムで読んだベストセラーであり、その後ベストセラーになった本でも例えば「世界の中心で愛を叫ぶ」みたいな本から何の利権の感触も感じないのだが、「バカの壁」以降に続く養老孟司シンパの人たちとか、「クオリア理論」はあからさまに妙な感じ。私は一度金銭の循環が良くなれば、あと人間の意識の謎を解きあかしてノーベル賞取るだの、大脳生理学で特異な発見をするという口約束をして、実際にやばい人体実験まがいの行為をしてるんじゃないかと疑っている)。

それで、実際の「養老クオリア理論」は何なのか。読んでみたのだけれどこんなもの、人間を只の脳神経的なパーツとして扱わない限り問題設定自体成り立たないし、パーツとして取り扱われた自分の脳の何が意識の屋台骨になっているかとか、どこに心が発生しているかを調べあげられるとすれば(しかもそこに薬理とか軍事技術が絡むとすれば)、気持ち悪すぎるよという気がする。そういうものが企業体なり自治体の中で潜在的に働いており、心象とか生活像を揺さ振っている、というのが、ある種のストーカーに遭ってる人たちの主張なのだが、それで意識の謎とか起源が解けないとしたら完璧に無駄な行為だし、ほんと自殺した人たちは報われないねと思う。

アンドルー・ワイルはアリゾナ大学の薬学の先生のようで、前にチャーマーズアリゾナ大学で先生をしていたと何かで読んだのだが、真逆のようでもカウンター・カルチャー由来の意識の変容について取り扱っていて、凄く面白いのだ。そういうのって基本的に特定宗派とか団体に帰属せず、傍流の意識に傍流を重ねて続いているようなイメージがあるのだが、どうなんだろうか。
だからなおさら、「意識」を研究の対象にするのなら特定宗派の洗脳とか符丁に縛られてはいけないのではないか、と思う。