単なる経済的付置のおぞましさ

前回ブラッサイについて書いた時に、「風の旅人」という雑誌についても書いていたのだが、よくは解らないがこういう雑誌の編集をしている方たち、茂木健一郎に対してもっとはっきり苦情を言うべきなのではないかと思う。
ケンブリッジ脳科学を修めてきた新進気鋭の脳科学者で、なにやら大脳生理学では問題になりにくい人間の感覚質というものを解明するらしい、それが解明されればノーベル賞ものだ! というストーリーは確かに分かりやすい鳴り物ではあるが、提示された時点で半分位の人は疑いを持つだろう(話半分に聞くというか)。大体脳みその解剖してるはずの学者が感覚を解明するって何か杜撰そうで怖いではないか。で、実際、心理学者との対談で緊張感なく解答を遅らせるわ、特定宗派の教祖との対談を優先させるわ、何かその他諸々変な奴だという事が徐々に明らかになっても、無駄にお金があるぶん人に圧力を掛けたりする余力だけは残留してる訳である。
「風の旅人」に写真を載せてる写真家さんたちは、多分他人に感覚を解明して貰おうなどと思わないだろうし、究極的にはお金のためだけに写真を撮らない人たちだろうと想像する。当たり前の事なのだが、金銭どれだけ積んだかと視ているものの情報だとか肌理の蓄積は比例しない(お金がかかっているからいいアートとか写真もあるだろうけど)。なのに経済的付置の下で個人のそれらしい感覚が押しつぶされるのは悲しいような気がする。

ある宗派をよく知っていて、そういうものが幅を利かせている組織(この場合その組織は「大学」なのだが)の中で馴れ合えないというかいかんともし難いという方の事情を聞くことになり、初対面のもとヒッピーらしいいまはケアワーカーの宝石商の男性と、電話回線のセールスマンとで昨年の始めに新年会をした(冷戦構造下の政府による意識変容実験みたいなものの本を読んでると、暗号で「宝石商」って出てきて縦横無尽に暗躍したりし、面白い)。それがほんとならあんまり大変過ぎるという政治的諜殺の話などが出て、何でそこに居るのか不審に思うまま、果物を持ってきたことを思い出したので柿とか蜜柑とか渡した。
そうしたらその方は次の日に、「フルーツをありがとう」というお礼を書き記したのだが、何故かその次の日の茂木さんのクオリア日記のタイトルが「フルーツ」なのだった。何か凄いイヤな感じというか、どういうジャンルの監視社会なのか解らない監視社会という気がする(何か見張られてる理由あったっけというか。そういうのが随所にぷちぷちあるのだが、下衆な成金で人のこと監視するわなんの還元もしないわとなると、やっぱり脳自体がおかしいのだと思う)。
監視し疲弊させた上で学会に入れちゃえば色んな意味で楽なんだろうが、なんか元からそういう傾向の女性をあたってよねと思う。以前も書いたが。
「俺にも持ってこい」という感覚なんだとしたら、よくこういう分かりやすい人を天才脳科学者として煽ったよねと思う。