生きられた家/

bobbinsmall2011-04-15

昼ご飯におうどんを食べつつ、つかんで出てきた多木浩二「生きられた家」を読む。とても好きな本。ものと家の現象学的な配置や結びつき(それはクールだったり整合性が取れていたり、雑然としていたりする)と、ちょっと不気味な深遠さ、ユング的な母型のようなものの両方が居住する事につきまとうのを思う。現象学的還元をして取り出してから散りばめたような精確さ。ある種の避け得なさと懐かしさ、不可解さ(こわさ、も)。そういうものの上に秘密のバランスを保って個々の部屋とか家とか街並とかある。納得してしまう。そんな風に出来てるのだ。
それで心理的なものがあれば、場所を見るのにその心理的な側面が強調されるのは自然な事であり、出来ればその自然の流れに自分の心的生活が無理なく格納される事を日々希っている、そんなとこなんだろうと思う。

 アレン・ギンズバーグのようなひとは本当にCIAに監視されていたし(ビートの詩はそういうのしかない感じもする)、そもそもそういう可能性に対して脆弱なポイントがたくさんあるのに意識化されにくい国なのではないか、ということを淡々と考えつつ(ほんとは諜報的な項目の上に、何となく個人的な意識の島が乗っかっているだけなのかも知れない)、大体在留米軍の居る土地では、5,60年代に出口調査の延長のようなかたちで、何か精神的なテストのようなものが行われてたことがある、という話を聞いたことを思い出す(それは要人の監視でなくて、戦時からそれ程離れてないときに敵国のひとの精神についてサンプルがたくさんあったほうがよいという、当たり前といえば
当たり前すぎる理由から行われたもののよう)。
 そういうものを取り込んでいる科学的知見というものが何なのか、何をサンプリングしてどこまで解明したかったのかについて精確なデータがあったらいい、というようなことを思いながら、電車で帰ってくる道すがら、さっと小さめの虹のようなものがガラスの外側を走っていくのが見え、とてもきれい。何となく満たされた気分になりつつその虹の成分とか、かけらっぽさについて色々と思い巡らす。
(プリズムを使った光の分離を、9歳くらいの人が性別も未分化なまま淡々と自分の職務として行っていて、それは本当に半径2メートルくらいの範囲にしか影響を及ぼさないのだが、当の本人にとってはとても大事なプロセスなのだ、という話を、ひとつにまとまって完結していく可能性のある像のようなものとして思い浮かべる。一杯の虹色の膜の中にある未分化なもの−プリズムの分離と同じくらい分断した身体的要素とか、その人の考えのようなものが溶け込んでいる−プリズムを通るとくっきりした形がそとの世界に押し返されるだが、そのときそれをじっと眺めながら自分が何様のものか知る、あどけなさ)。
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それは現実にちゃんと馴染ませるという事なのだが、要は気象が操作される可能性、というものがこの世にあるとしたら、はやいうちにそれがネガティブなイメージとして思考に定着しないよう、絶えず構図をとって転換させていく必要がある、というような事を考える。
ここでまた少し、マックスフィールド・パリッシュのこと。
それからキーホルダーについていたホーナーの小さいハーモニカがもげたため、ちょっと吹いてみる。

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格子だけの古材を組み合わせてつくった本棚の、「危険を冒して書く」の並びに
「生きられた家」を並べることにする。