うちに来ていた家守さん/内田樹先生の背後に人工無脳か

4月の4日にうちにいた家守さんは、多分換気の時にでもどこかから紛れこんで天井をはっていたら、ランプの中に羽虫か何かが居て食べようと降りたまま出られなくなったのじゃないかと思う。家守を道端で見かける事はあるので、外宇宙からの何か知らせに来たものとかじゃないと思うのだが、神秘主義的な考えかたってこういう現象に全部意味を見出だして、なおかつ関連付けとか動機付けするなぁと思う。
レプティリアンのお話を一渡り読んでみたのだが、この話の嫌な所は爬虫類が序列とかヒエラルキーの最頂点におり人間に指令を送ったり進化をコントロールしている、というくだりで、荒唐無稽なお話としても嫌なのだが、人間というものの認知とか思考には確かにそういうねちねちした契機があり、通時的作用(タイムライン)の中で捉えると自己意識が減衰しそうになるというのが実感としてあるような気がする。
だとすれば爬虫類のような陰湿なものをヒエラルキーの上位存在として見ずに、いきなり共時的な構成の中で分析してしまえばよいのだ、と書いて、突拍子もないから駄目かなぁと思う。 ♪

 久しぶりに更新のあった内田樹先生のブログだが、人工無脳の気配がある。

 さすがに女手ひとつで人工無脳論を展開したら誰も私を相手にしなくなる
気がするのだが、人工無脳というのは「ある人の使いそうな語彙を登録しておくことによって、どれだけその人の実体に近いような文書作成が出来るか」を競う
プログラムで、詳しくはここに書いてあるようなことなのだが、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E7%84%A1%E8%84%B3
 特に4月11日から5月5日までの挙動、完璧にこの手のプログラム任せじゃ
ないかと思うのだ。(検証は出来るときに詳しくします)。

 この人工無脳というのは、シュルレアリスムの「Cadavre exquis」という
手法と同じ(本体は優美な死に体だが言語だけが並べ変わって自動生成
する)。としても、

 ・オーストリアから切り出した集成材に中国から輸入した漆喰が並んでいるのとは、家の表情が違ってくるのである。(内田樹の研究室)

 という一文は、普通の人間の建築(という語が大げさなら、建物)リテラシー
として変なのじゃないかと思う。いや、建築は関係なく人として変だ
 
 建材の認識についてはさておいて(集成材は色んな種類のバラバラの樹を切り刻んだ上ではり合わせた偽ものの樹なので、「オーストリアから切り出す」?
ものじゃないよ)、

 ミシンと蝙蝠傘の手術台の上での出会いのように美しい??
という文章と同じくらい、この文章は変だ。ちぐはぐである。そのちぐはぐさを念頭に置いた上で全体を読むと細かい語尾とか擬音が、当のボキャブラリーを持っているはずの主体と連動せず、微妙にズレているのが分かるはずである(要は内田樹的行為というものがあるとして、それをプログラムが一旦かきまぜた後抽出し、羅列するのが人口無脳の仕事なのである)。           ♪
 ある種の新興宗教の人の符丁トークと同じで、こういう羅列の先にあるのはひたすらに無脳状態に対する接続である。昔のMacハイパーカードとかにこういう笑えるテキスト加工ツールがついていて面白かったのだが、考えてみればそういうプログラムと普通の人間の差をシミュレーションするのも感覚質の研究者とかの仕事だったはずである。
素朴に、なんでそこまで普通のプロセスをネグるのだろう、と思う。
爬虫類人というものは信じていないし、個別の爬虫類はあまり人に転移してこない気持ちのよい存在なのだが、こういう文書を見ると何となく条件反射と金銭の遣り繰りのみで粘質に生きている主体がおり、昆虫とか蛇に類推されるというのもわかるような気がする。
蛇に差し迫ったものはないが蛇男には切実なものがある、という話は俗悪にも神話的にも書ける。それが地球という場所の意識にどんな影響を与えてるかは分からないけど。