それにしても/寺山修司

「科学」って書いていても全く科学らしさを感じさせないところが凄い。どうせ下らない人生論にねじ伏せられるんだろうなと言うような。

「書籍バブル」の話のときに、その新興宗教と出版行政についてもっと言われてもよかっただろうし、いい加減茂木さん的なものを認識論的切断の対象にする人が居ていいような気もするのだが、まともな感覚だとそこまで関わらないで済んでるのだろうと思うとゾッとする。
とにかくアクチュアルな感じ全くなし、というのが凄い。手元にある本だと「両目視野闘争」が動物実験と脳疾患の人をサンプルに調べられてたのが50年代から60年代のことだ。今同じ事調べようとしたらどういう条件になっているのか。そこにカルトが絡んでるとして、うわぁ気持ち悪い、と思う。
いきなり「被験者にされる」というのはさすがに飛躍が大きいとしても、なんとなれば狂った集団というのはそういう事を平気でする訳であり、そんなものよりまともな繰り合わせの方が大事だと思えばそう言明しない訳にいかないわよねと思う。

曇りから雨の時の空を見てると、明るさが晴れている時の何倍かに見える時があるなと思う(これは比喩とか全く関係なく)。

      ♪
(これは他の寺山修司についての文脈とは全く関係ない)
 部屋の掃除をしつつ、変形版の寺山修司の詩集をどうともしかねる感じがあり、やっぱりどうともしかねるのだが、情と感覚が備わっているからこそ廃棄され
得る、場所/文明 というのは、なんとなく濃密にこの本から立ち上がってくるな
と思う。東北という場所の特性なのかも知れないけれど(文明というのはいいすぎなのだが 地震の前に考えなかったかも知れないし、地震以降考えたというのはあと付けの気がするけど、東北のあるとこでご飯食べれなかったことや、子供心配なのもこれからずっと続くのだろうと思うと、
そういう不安定さや非合理さ、訳の分からない出来事が、クオリアとか何とか言う
言葉とは全然関係なくある種の感覚を形作っているのだと断言できる。日本文学が
一番よかった時期にはみんなが一度きりの単独の出来事としてある種の感覚に
どうにか決着をつけようとしており、そこでカルトの全体性とか政局に取り入って
延命をはかる疑似科学とかはなかったような気もする)。
 とりあえずこすいアクシデントの連続で書ききれなかった寺山修司論と中井正一
論だけでも、今年仕上げようと思う。

       ♪
 電車に乗りつつ、家に戻ってきてまともに家に居るときの思考のボリュームが
戻ってくるように考える、というのはどういうことか、などとつらつら思う。