心理的構成/師事?

 言動がまともな回路を通って外化する過程があんまり許されないというシビアな状況を
 上手く言い表すのにどうしたらいいか、幾つか考えてみる(そういう事があんまり
 起こると、認知能力にどんどんヒビ入るような気がして怖いのです)。
                   ♪
 駒場に4年ほど前、ベルナール・スティグレールの講演を聴きに行ったことがあった。
(2007年の7月11日にニコニコしてる私はスティグレールを見てたわけである)。
 スティグレールはいかがわしい、手先が器用そうなおじさんだった。デリダの本で対
 談してるのを読んで全然一筋縄じゃない師弟の関係性だっただろうなと思う。

 建物を触りながら何かに師事するという感覚が、もし多少あるとして、私は別に人と会う
 事を全く重視しないのだけれど田中純先生に師事させて貰えないかと思う。
 状況が被るのだもの。(そこには何か外傷的なものの感覚がある)。

 ハル・フォスターが書いてるような何もかもの(脳機能からの)可視化が、都市工学と
 結びついて人と環境にどういう経験を齎してるのか、という事が、科学的にどんなもの
 だったのか全然分からないのだ。単に苛まれてる感覚とそれに付随する妙な拡大
 感があるだけで。
                   ♪
 私そういうところ結構誠実に出来ており、まかり間違っても茂木さんや内田樹先生や糸井
重里のことを先生とも何かを教わりたいとも思わないし、例えば茂木さんを凄く
気持ち悪くて係わり合いになりたくないと思うのも、袖にして色々誇示しようという気から
じゃないのだ。単純に気持ち悪い、と思う(稼いでいてもこう言われる男は自分を人間のクズ
だと思ったほうがいい)。本を読むのに邪魔なのだ、凄く。時間の無駄という言葉しかしっくり
こない。
 その反面、インティメートな疎通が、今まで疎通とみなされていた方法と全く違う仕方で
開けてしまうことに気づいてしまった同士の関係性(それは、あんまり性差に限定されない)が
あっても良いわけで、アートとか哲学はそういう人たちがちょっとづつ精錬するものでしかない
のじゃないか。
 下らないジャーゴンとか符牒を弄くってるだけの脳科学に比べて、環境工学も建築も実業なので
余計そう感じるのかも知れないが、人体実験も動機によるよねと思う。それから茂木さんに対して
いつも感じている事なのだが、この人には本(テクスト)を読む能力が全く無いのじゃないかとい
う気がする。

                   ♪
 遠藤照明の講演で、建築にロマンティックとかロマンティシズムを視る流れがあるのだなと
感じる(LEDの照明手法にそういう言葉が当てられたため)。
 そういう心理が復興と結びつけばいいと思う。

                   ♪
 流石に神経に悪いんですが、という事柄を伝えながら、それにしても日本の精神医療滅茶苦茶
だなと感じる。フロイトユングも読んだ事がない人が、ノリで病態を決めてるとしたら物凄く
怖いこと。
                   ♪
 夏至村上隆の関係性が分からない。

                   ♪
 今はアジサイの時期なので余計にそう感じるのだが、人間はやっぱり自分がそれらしく考え事出来る
空間に花一輪あればそれなりに癒されたり前向きになれるのだと思う。わざわざ「クオリア」と言わなくて
も、最初からそんなものなんじゃないかと感じるのだけれども。
その時、花を見てる私に内在してる心理とその花の様子に、全く関係ない人が割り込んでくるというのは
どう考えても妙じゃないのと思う。
                   ♪