永大産業のキッチン

 打ち合わせをしながら、ちょっとだけ以前使ったことのある永大産業
キッチンのことを思い出す。(関係はないのだが、使いやすい)。

               ♪
 ほんとにどうでも良すぎる事なのだが、内田樹先生のモチベーションとして
「今2011年(平成23年)だが、「昭和軽薄体」で儲けたい」というのは凄く大きい
んじゃないか、という気がする。そしてそれは思想じゃないし(当然思想じゃない
ものってあっていいと思うのだが)、エッセーをまとめてあるとしても本として
読む必要もない気がするのだが「売れている」というのは殆ど怪奇現象で、その
怪奇現象をバックアップしてるのが新興宗教となると、気味悪い、と思う。
(私は以前本屋の流通絡みのエグい話を聞いたことがあったのだが、そういうもの
と無縁じゃないことはこの人の本を取り扱う当事者の本屋さんが疑念を呈していた
「書籍バブル」のお話の時に明らかだ)。
 80年代にそれが出てきたのをリアルタイムで読んでる訳じゃないのだが(何冊か
リアルタイムだったかも)、当時そういう文章を支えてた高度消費主義社会の感性を
どうとか、みたいな話は、今当然実効性が無く、何妙な擬音で喋ってるのこのオヤジ、
位にしか思われないのじゃないかと思う(皆個々にメールをやり取りしてるし顔文字
だって使うし、欲しいものは稼ぎに応じて買えばいいから他人の欲動が言語化される事
になんて興味が無いのだ。ご飯食べた時に「ぱくぱく」って書いたり図星だったりする
時に「ぎくり。」って書いたりするのもそういう流れだと思うのだが、何か却って古臭い
感じがする。今「丸文字」で文章を書く女子高生が居ないのと同じで、単にそんな奴居ない
のだ)。
 そういう変なおっさんが居ること自体は仕方ないと思うのだが、いわゆる「業界人」の
名前が売れてる人たちというのは古臭いこと言いながら延々表に出たままで、退く気とか
全くないのだろうかと思う。本を手に取らなければ済むようなら全然かまわないのだが、
「書籍バブル」はほんとに詰まらない本が商業ベースに乗りに来ることに対する本屋さん
の辛い実感だったのだろうし、訳の分からない文体を書き散らす人間のパクリの元ネタに
なってるとなると、何でそんな奴に心理的リソースを無駄遣いされなきゃいけないのよと
思う。
 そして、そういう人のしてることというのは、当然批判の対象にも批評の対象にもならない
し、ましてやそういうものに対する論旨を持つことが出来ない。何を書いても「俺も昭和軽薄体
で儲けたい」という話でしかないからである。
 不思議なのは、何でまともな文学者とか批評家がそういう人たちを外さないのか、という事。
本の流通構造を利用して狡猾な感じで自分たちの言説を前に出してるのってイヤじゃない、と思う。
そこに利権団体絡みの横暴があるのだとしたら、
何か穢らわしいじゃないという気がするし、そういう横暴オヤジが一人消えれば相当すっきりするように思うのだけれども。