パノプティコン
については、ウィーンの病理学博物館に触れたとき書いた。
・・・素朴な疑問なのだが疾病認定した後どうケアするのか、と思う。
話は杜撰で、某カルトが妙な技術を使って常時監視してる対象があり、それを指摘すると病気扱いされちゃう、という話なのだが、そんなの内面的にその宗教と縁もゆかりもなければ病人認定されても困りますと言うだけでしょと思う。
人は普通自分と丸で関係のない宗教の教祖に対して宗教的法悦なんぞ感じない。気持ち悪いからだ。ところが内田樹先生みたいなおっさんはそういう事が解らず、道徳意識とか宗派性みたいなものも教化して当てがってくる(それが単に世論ならいいのだが、どこかで対幻想の受け手みたいなものに無理強いする構造を捨てられないのは狂っていると思うのだ)。
ヌーボー・フィロゾフの反動的な人たちがカトリックで教条主義みたいな事を言ったのと同じで、ある程度以上何らかの影響力がある宗教を抑圧の道具に使うのは汚い。大体その行為自体が「批判」の対象にならないのじゃないか、と思う。
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仕事から帰ってきて、「デザインと犯罪」はどうしようかなぁ、ちょっと落ち着いてからにしようかなと思う。
(「視覚論」、考えてみれば2007年に読んでたのだ。その頃もグジグジ内面をトレースされている感じがあったものなぁ、
と思う。顔面にメスを入れたことも予定もないんだが、「デザイン」がらみのオブセッションをそういうとこから読み解くと相当面白い気がする)。
2007-06-27 近代化する視覚(メモ)→ここでジョナサン・クレーリーの文章を引いた。
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人体の神経は、適切にも電信線に喩えられてきた。電信線は電流
だけを伝導し、他のものはいっさい通さない。電流には強弱があり、
どちらの方向にも流れ得るが、その他の質の違いは全くない。にも
かかわらず、端末にある装置の違いに応じて、電報を送ることも、
ベルを鳴らす事も、鉱山を爆発させることも、水を分解することも、
磁石を動かすことも、鉄を磁化することも、光を
発生させることも出来る。同じことが我々の神経についても言える。
神経において生じる興奮の状態や、神経によって伝達される興奮の
状態は、どこでも同じなのである。
ヘルムホルツが明言しているのは感覚の分化ではなく、経験の源が
何であろうと、他のメディアや機械と多様に接続される身体の能力が
何に由来しようと、身体にとっては問題ではないということである。
知覚するものは、特性を持たない導管、一種の
中継地点となって、循環と交換を最適条件に調整するのである。そこで
循環し交換されるものは、商品であっても、エネルギーであっても、資
本であっても、映像であっても何ら構わない(ジョナサン・クレーリー
「近代化する視覚」)
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ある思考を、単に主体に内在する情報状態として視ること。むしろ中継地点として
使うこと。これは、リアルな問題でしかないのに、そういう考え方を阻んでいるもの
があり、〈開かれていない〉ことによって神秘化しやすいという事態を、言い当てる
ことにはスリルがある。
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突然W・スタイロンを読みたいなぁという気持ちになる。
闇とか病、土地に準拠したものを書く時に、サーガの形式ではなく
単に自分の視覚と世界の視覚が倦んでいるように書けないか、と思う
ことがある。単なる空想的な形式の裏面でいま進行していること。
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単なる空想的な形式に孕まれているポジティヴさ。
水の中に長くキリムが渡してある、そう思ってずっと眺めていたら
キリムの模様の水だったようで、どう手を横切らせても、模様が消えさらない。
たまにそんな経験をすることがある。私はとても嬉しかった。
満月だ。キリムの中の草原には新しい馬が一匹居て、走り出そうとしているのだが
水の半ばで凍り付いている。光が馬のたてがみにまんべんなく落ちている。それが全
部水の中にある。キリム、水に溶かそうとした人は草原に落ちる光線に似ている。き
っと同じ物質で出来ている。織られている時間は奥行きと、それ以外の呟きのような
もので満ちている。
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何が「ファシズムでない」ものとして思い浮かべられているのか、転移の基盤に
なるセンシュアリティの排除なのか、単なる空間的なものの快適な展開なのか。