茂木さんのしつこさ

一応四年前には「思考が電送されるモード」について考えつつ詩と結びつけようとしていた事を思い返すと(そういう手続きは結構バシュラールっぽい)、警告したにも関わらず延々ねちねち付き纏ってくる茂木さんは精神的な病じゃないの、と思う。ほんとに迷惑なのだが。
特定宗派お抱えの言論人と科学者、これほんと何よ、と思う。

認識論的切断という言葉に対して俄然本気に。希釈されてない宗教的情動や致死性の暴力、洗脳、人体実験は当然認識論の対象でも切断出来るものでもない(切れるには指を詰めればいいんですかみたいな根本的に変な話になってしまう)。
バシュラールのそれとアルチュセールのそれで全く違うのだよねと思う。後者のそれは殆どせん妄とかトレマのようなものなのだった。いま認識論的切断が思想史の文脈上でどう扱われてるのかとか、それが形成されたプロセスの差異とか、ほんとはそんな事確認したく、それ位の事を毎日考える自由があるかと思っていたのだった。

ジョナサン・クレーリーのお話を読んでるとからっとしていると言うかファイン・アートのものの見方だなと思い、そうでもないので洗脳が苦痛の源になるんじゃないかと思う(大体徹頭徹尾なんでまたそんな事までという気しかしない)。しかもその団体は一貫して人を不快にするのが目的なので、ファイン・アート云々言っても話が成り立たないなという気がする。
視覚論にも出てきたが、デュシャンとかジャコメッティの感覚に連なる系統ではあり、そういう人たちのマシナリーな知見がなにによって呼び起こされてたのか今持って謎なのだ。でもそれは色々助けてくれる、と思う。

フランス文学は最早マイナーなジャンルなんだろうけど、家で独学的に読んでて恫喝されたりするたちのものではないですよね、と思う。そこではたと不安になるのは、何だか新しい読み方なり認識論的切断の情動の行方みたいな事を思い浮かべるだけで制裁を加えてくるような、そういう忌避感情があるようなところ。
書く語が全部単一の表記に基づいてるため、ディクテは出来るがそれ以前のところで脅かされすぎ、と思う。

アメジストの色をした水路か小さい通り道のようなものを窓のフレーム一杯に思い浮かべてみる。
今日はともかくアメジストのようなもの、何となく陰影の濃い部分がある紫色の光の塊が少しづつ引き伸ばされて、
フレームを満たすような感覚を思い浮かべていた。

     ♪