(後記あり)

止んだ雨と降り始める雨の中にある広がりのようなもの。
一旦止んで大気から消えたものがまた降り始めるときに雨粒と雨粒の間で、一瞬幾何学的な軌道と見えるものが走る。子供のする点同士を結ぶ遊びのようにして、その軌道を立体の形で見通すと動物や真珠類が混ざり込んでいるだろうと想像する。そして言うまでもなく数秒、私がその軌道内に居る。視座の定まらないままそれを眺めてしまうのは何と危険なことか。ある種の未開人はそんな風にしてそれを眺めたのだ。雨=情報として。
それが何らかの情感を運ぶ伝送体、メディウムであるという考えも同じく生体を貫通する。感情にとって丸で隙のない憤りが存在しないように、貫通し過ぎてしまうということはないのだが、ともあれ無軌道にみえていたものに多重化した軌道を見るとき、自分の有り様もそれに合わせて揺り動かされているのだ。

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 転移性感情のメディウム(象徴表現だと水とかそういうもの)をもっと細分化させる、とか、そもそも抜きに
するとか、考え始めるとテレポーテーションとかそういう変な話になるなと思う。
 不思議なのは何で新興宗教の人たちにとって「雨」はネガティヴなものの象徴なのかという事で、日本だけ
じゃなく大抵の国の民族学で雨って大事なものだと思うのだが。
 バシュラールに限らず、時間とか物質を分断性で見ようとする思想家は面白いなぁと思う。そういえば昔
中井正一論を「被迫害者の明証性」というテーマで捉えようと思ったことがあったのだった。この人たちにあった
途切れ途切れの時間の中でもしっかり独習する姿勢、これは欲しい、その強度は凄まじいと思う。
 大半が(大本が)10代の頃の記憶。こんなの普通にしてればアウトプット出来たはずなのに、何見ず知らずの恥ずかしいおっさんに迷惑掛けられてんのと思う。
内田樹の論法が完璧にスターリニストのそれだと解った。きもちわる、と思う)。

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 中井とバシュラールについて色々と(別段思いつきで類似しているという訳でなく、何か、
はっきりした同一性と、そこに架橋できる素材があるように思うのだった)。
 「美学的空間−機能と実存と組織の美学」 機能と、実存と、組織というのは?

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 全然問題系の違う、幾つかの視点。
 新橋駅周辺をほっつき歩いていて、なんとなくだけれどもう少し具体的なことを考えよう、と思う。
 
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 プヤベルテロニアナの英名、結構いいなと思う。
 丸善のブックカバーがLIXILだし、漫画雑誌の裏表紙がLIXILだった。

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 オリオン座の種子。
 いつ蒔いたか判然としない
 (蒔いた場所も)
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阿智神社というところはオリオン座を三人の女神に神格化したものを祭っていて、それが人前にあるとき
何だか漫画的なイラストになっているのだが、じっと眺めていると確かに三人、女の人が居るように見える
星座なのかも知れないと納得してしまう。