宗派性と思考/デンドロカカリヤ

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 電車でのかなり長い時間、目の前でハイボールを飲んでる65を少し出た爺さん2人の
話を聞いていた(映画が1000円と言っていたのでその位)。どうも出版関係の仕事を
しているようなのだが話の内容にそこそこ
偏りのある爺さんたちで、石原慎太郎の息子さんが表紙の絵を描いたやなせたかし
雑誌とか、丸谷才一がいかに凄いかというお話をしているのだが、1人が「「最近プロテスタンティズム
の倫理と資本主義の精神」を電車の中で読んだんですよ」という話をし、そういう人も
居てストーカーはしないよねぇ、という気になる(大体自分が読んでる本だの見てる映画の他に
外界に全く関心なさそう)。こういう人ばっかりだと相当楽だと考えつつ、でも何か別様の編纂を
しないといけない理由があるんだろうねぇと思う。
 (カトリシズムはよく解らないがプロテスタンティズムはやっぱり過剰なまでに水に拘る。
プロテスタントではないにしろ自分の心理的環境が脅動されているのを感じる時、大体体内の
水分が変なのだった)。
 その後爺さんは昔話の古い映画の話をするのだが、言葉の端々に「あの景色と表現はプロテストで」
という言が混じり、何となくプロテストする人特有の問題系というのもあるだろうなという気がする。
 65を少し出た爺さん2人は、黄色い模様の入った缶の同じハイボールを飲みながら
大変幸せそうだった。力が抜けており、恐らく周囲の人間が自分をどう見てるか
とか自分の説話のボリュームがどういう印象を人に与えるかなんて構っちゃいない
のだが、いいな爺さんと思え、このくらいの爺さんだったら自分も楽なのにと
思う。
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5大疾病話で何故か「安部公房がガチで分裂病だった話」を思いだす。
一旦均質空間に思考を放して、それでもなおデコボコ肌理を持って立ち上がって来る部分。
それを便宜的に「我」と呼んでいるだけに過ぎず、外在するモノから意味体系を注入する
事によってその「我」の肌理は変換しうる(デカルト的な考え方なのか、オートポイエーシス
みたいなものなのか?)・・・ということを抽象的に考え抜くこと。
 その過程で色々とエラーが混ざりこむと、個々の精神的形象として表れるような気がするの
だが(レプティリアンの話もそうだが)、それにしてもこういう事って、1970年代に心理学の
領域が発展していた時の文体を引き継ぐような形で、もっと研究されてもいいんじゃないかと思う。
 どれであれ湯浴みのように均質空間を通ってきた我は、明るく透徹している、という事。
 基盤に明るい現象がただ並び出ているような感触がただ在るだけのはずなのだが、
そういう領域に触れるまでの道矩が一筋縄でなかったりする。
(そこにシンクロニシティだの、様々な神秘主義的な意味づけと動機付けが絡むと話は一様で
無くなる)。


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 安部公房が対談の中で、地球外生命の問題も「内在」として捉えようとする異様な努力みたいなも
のを目の当たりにする。凄い。
でもリンクしたりループしつつ、エーリアン=異郷のもの、というのは我の問題でもある訳だった。

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 アイソレーション・タンクのようなものをなんとなく胡散臭く思って
居たのだけれども、本来内的に行われてるはずの心理的な出来事が外在
してしまう(その緊張)というテーマから「癒える」ために、関心が
湧く。これも備忘としてhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AF
 ジョン・C・リリーという人がそれほど面白く読めないのだ。
 何を言っているか解らない、という気がする。
 レプティリアンと同じで、いるかも人間では無い為、よく
 解らない。
キリがない気もする。