中岡俊哉

 心霊写真の方である。そして量産型の方である。
 量産されている著作が子供心に訴えかけるので、
 何の情操的判断にも役立たないのに、知らず知
 らず手にとって読む怖い話が、心理的な部分に蓄積されてしま
 う(そして「バカ、下らない本読むな」と
 半分笑われながら言われる時、どんよりした
 霊的な、もやもやした感覚の吹き溜まりみたいな
 世界から目がさめる)。
中岡俊哉的な世界では、恐らく70年代に
 既に「言語を通さず人が念だけで通じ合う世界」
 とか、「脳がラジオになって外からの電波を受信
 し、空を飛びたいと思ったらそれが達成される世界」
 が完成していたのだろう。大体冷戦構造下だとほんと
 に、軍事がらみでそういう事を研究していた可能性も
 ある、と思う(思考盗聴はあるのだ)。
  スタニスワフ・レムの「ソラリスの陽のもとに」の
 中で、想念を反映する海が主人公の妻の思いを実際に
 映像化したとしても、それが全然幸福のイメージと結
 びついていないのと同じく、そういう研究下で「脳が
 ラジオになって念だけで思いが伝わる」として、「で、
 それがどうしたの?」と言わざるを得ないような、癇に
 触る部分がある。だから他の、人間味とか含蓄のある本を読むようになると
 そういう何かイラッと来るような神経質で「霊的な」澱のような
 世界はきれいさっぱり忘れられる。ものなのじゃないかと思う。
  私には全く霊感がないが、ある本当に「チャネリング」を
 している可能性のある女性から、「男性のチャネラーの中に
 は、本当は霊的存在と通じる能力が無いのに、そう見せかけ
 ているだけの人や、とても弱くて汚い波動のものと繋がって
 いる人も居る」という話を聴いたことがある。
 子供は基本的に人の本が量産されてるという事に何の意味も
 見出さないが、沢山流通していたのでたまたま目にする機会
 も多いのだ。そして、子供心に感じていたのは「この人はほん
 とは霊なんて信じてないんじゃないか」という感覚だったよう
 に思う(恐怖感を覚えるはずの状況に対する、乖離というか
 離人症的な距離感を本から感じ取って居たというか。
 それが本当に心霊的な意味で「怖い」のだとすれば、あんな
 妙な写真が載った本を何冊も書いてたら確実に立ち行かなく
 なるだろう)。
 
  けれどそういった感覚の中に滞留して、実際人が人に迷惑か
 ける事があるんだな〜という感慨を覚えたのが、オカルトや新興宗教がらみ
 の事件ラッシュの一時期ではあった。そういう手口に対するブレーキ
 も、そういう事件が「普通の人の心証を悪くする」と思われる
 場合には利いていたのだった。
 ただ、その本来なら心証悪いはずの霊的存在や、乖離的な超常現象
 への思い入れがお金になるという事を、ひとたび「学習」する人
 たちが出てくると、事態はほんと胡散臭くてより霊的な方へ
 とひっぱられていく。そういう事を未だにしてるのが茂木さんであり、
 内田樹先生であり、糸井重里のような気がして仕方ないのだ。
 本末転倒だと思う。
 人間の心理や思考を量子力学にひらけるのだとすれば、一度にいんちき
 臭い霊感など切り捨てて、一挙に「ニュートリノが光速より早い」領域
 を解明するのが科学者じゃなかったんだろうか。それを2000年代の早い
 うちにしててくれれば、と思う(というか、70年代のカウンターカルチャー
 の本の見解と比べても、今霊感とか新興宗教にホールドされながらしか科学的
 見解をばら撒けない人たちの感覚の方が、古くさくてずれてると思う)。
  新興宗教とかヤクザの語法でガッチガチにホールドされてしまうというのは、
 ある意味自分固有の感覚なんて持たないという事であり、それはやっぱりある
 種の退嬰でしかないんじゃないか、と思う。しかも、大衆(とか言って束でマーケ
 ティングの対象にされてるもの、自分も含めて)は、そんなもの心の底で全く信じて
 いないような気もする。 お金持ってても上品な人はいっぱい居ると思うのだが、下衆な成金のてらてらした感じとか大嫌いで、茂木さんて金持ち喧嘩せずと真逆みたいなイヤなセンスだなぁと思う。万事人の感覚を逆撫でしないと存在価値がないというのは。

暴力団だけじゃなく霊感商法とオカルトもきれいにクリアランスしてほしい。覗きは犯罪なのに、怪しげな団体を通して個人の生活に介入するのはほったらかしはおかしいんじゃないの、と思う。

近所で平穏無事にご飯なぞ食べてると、つくづく変なのはこっちの事知ったうえでコントロール出来るとか思ってる奴のみだと感じる。住民意識という概念自体無い場所でやってよねぇ。