病的性格

・・・という本の、精神病質のチャートについてつらつらと思い出しながら、
結局新興宗教とかカルト化するものの容態が、じぶんの中で割と簡単に
図式化出来てしまう事を思う(それは結構さばけた感触のあるもので、
日常性がそのさばけた感覚と連続としてある時に納得しており、単純に
そこから続ければよいのだ、と思う。問題なのは図式化しても排除し切
れない強い転移性感情とか劣情が、電波に乗ってやってくるという事な
のだ)。
イヤなのはそれが解っていながら、それを解除するのが難しい位病的
な物が権限を持ってしまっている事なのだ。普通は日常性に目を向け
た所で一旦縁が切れるようになっているのだが。
 ・・・私はそれはないんだが、音声送信って酷い話。カルトがそんなこと
してるとしたらやっぱりさっさと刑事罰作るべきだと思うのだが。
上記はまさに現象学的還元の事を言っている訳だが、そこから病理を解除する
パースペクティヴというのはあまり歓迎されない(でもそれをせず、人間の<感覚>の何が解るのか?)。モデルニテを元手に、そういう場を現実に
重ねるのはスリルがあって面白いことだと思う。
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 ともあれ、対人インターフェイスが欠落しないような形で仕事が続けられる
事に一安心。スーツにアイロンを掛ける。
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対人間(対シチュエーションなのか)で「こなれた」部分がないのって問題だ、と
思いつつ(自戒も込めて)、そういうこなれていない事象に引き合いに出されてい
る神仏は徹底的に疑おうと思う。(感覚質がどうとかいう以前に、デカルトもウィトゲ
ンシュタインもそういう状況で考えを始めたんじゃなかっただろうか。
「そしてたしかに、神が私を創造するにあたって、ちょうど技術家が彼の作品に印刻した自己の
しるしであるかのように、この観念を私のうちに植えつけたということは、不思議ではない。ま
たこのしるしが作品そのものとは別の或るものであることも必要ではない。」(ルネ・デカルト省察」)
・・・これはいい言葉だな、と思う)。
 こなれてる事と、ヘンなドグマにはまらないというのはたぶん普通に大切なことで、私が糸井さん的
なものを認めたくないのもそういう原理原則を無視してどうでもよい世界を展開してるからなのだ。
(普通捨てる世界というか、ダメな時にゾクっとそういう感覚に振れるかもしれないが、基本自分に
不必要な世界と思う)。
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糸井重里という人について(それが求心性でもあるのだろうが)、なんかもうばーっと
塩を撒きたいという感覚を感じる。クリエイティヴィティの基礎が「さびしさ」に
なるのは衰弱した形式においてだけ。
「60男のさびしさの80%は淋菌のような汚物、10%は間違った人生の選択、あとの10%は居場所のなさで出来ている」
 ・・・って名コピーだと思うので、来年の「ほぼ日手帳」に載せて欲しいのだが。
「世の中には、金を稼ぎながら大恥を掻きあがく人種が居るものだ」

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 商才というのは確かにあっていいんだが、市井の人は恥ずかしいみいりをそんなに重視しないという
事を忘れるなやと思う。
ヘンな栞(一個四角で一個三角)付き、猿のマーク付き、「HOBO」って書いてあるタグ付き。
開くと余計な格言付き、カバーが68種類。こなれてない。右と左で違う靴下履いてる人みたいというか、
X-ray specの曲みたいなのだが。