男嫌い/彫塑性

・・・もそうなのだが、何かあんまり男の幻想に合わせて
不幸になるモードがないな私、とは思う。(なのでイラッと
来て逆切れされるといううっとおしいコミュニケーションに
なるバヤイが一番多いような気がするのだが)。

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「気持ちいい」でも「不自由だ」でも「めずらしい」でも
 「うれしい」でも「きれいだなぁ」でも、
 そういう「感じ」が、ものすごく小さな、
 ピンポイントの枝の先に止まってることがあるんです。
 大きい「感じ」や、経験済みの「感じ」や、
 みんながよく語る「感じ」の他に、
 「んっ」って思う「感じ」を、感じられたら、
 それはもう「はだかの赤んぼう」のような
 「いい考え」なんです。
 
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 ・・・糸井さんがピンポイントでイヤだと書いたら上の
言明なのだが、こういう感覚でこちらのプライバシーに
手をつけてくるのと、あとは衛生観念が大幅にとち狂って
るのがイヤなのよねぇと思う。
昔「愛犬家は犬と食事しない。人間は不潔だが犬は清潔だから
だ」と書いた天野哲夫の本のオビを見て(アングラ)何かなぁ
と思ったのだが、その感覚を一般化して押し切ろうとしないで
欲しい気がする。
 こういうキモい中年以降の男が「んっ」とか「はだかの赤んぼう」
とか書いてる場所と自分の実体は重なっておらず、パルコとかに買い物
に行くと本当にそういう風に思う(もう女性的な消費社会はそれ自体自律して
るのじゃないか、と。当たり前の事だが手帳一冊選べない人って居ない訳で、
それが心許ないために他人の消費動向を執拗に探るのだとしたらやっぱり
そちらが脳の病気なのだ、という気がする)。
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この人が親から疎まれて捨てられた理由がよく解るよな、と思う。
もし自分の息子でも、やっぱり里子に出すか邪険に扱うかしかないもの
な、という気がする。つい「ほぼ日手帳」を購入してしまう人って
やっぱり何かあるのだと思うのだ。
「コピー、だって邪魔だもの」という感じ。
 本当に不思議な位毎日毎日「糸井重里 嫌い」で検索があり、善人
イメージでテレビに出ていようが女子供騙しみたいなノリでもやっぱり
何か釈然としないものがあるんだね、と思う。

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ずっと疑問に思っている事として、何で抽象的な彫刻との親和性が高い
民族とそうでない民族があるのか、という事があり、その事の謎が解け
て溜飲が下がると重荷が一つ無くなるのだが、ブランクーシをじっと見た
ジャコメッティをじっと見ていても中々謎が解けない、というような事を
考えていた。
 メディアの中に何らか自分の意識と連続性のあるエコーがある、と感じて
しまうことと、ただの切れ端の棒に生命を見ることの過剰とで重なる部分は
あるのか、あるとしても後者は別に病理と見做されなかっただろうし、その
過剰がいつも人の悪想念で行われてることを上回ればいいのだと。
(写真はブランクーシのたぶんあざらし)。

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「複製技術時代の芸術作品」が1935〜6年で、中井の「委員会の論理」が36年
であり、ベンヤミンをリアルタイムで紹介していた「世界文化」を通じて
影響を受けていた可能性がある、というのはよい話。何が感覚することに
とってのオープンフェーズなのか考えさせられる。

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糸井さんは他にもやらかしてるようなのだが、セクシャリティ絡みの
地雷でノゾキを引き当ててしまった場合、やっぱり無茶苦茶言うよね
という気がする。道で引ったくりに遭いそうになったら鞄で防御した
り大声上げなければいけないのと同じ。
この人のご家族が宣伝に出てた某家電メーカーさんの赤字額を知り、
びっくり仰天という感じになる。
やっぱり何らかの形で、メディア絡みで思考停止を強いるものの在りようを指摘
していかないといけないと思うのだが。
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母性本能の可視化というお話絡みで、何かまるでハックスリーの小説みたいに
面白い経験をしたことがあり、それは「ハックスリーの小説みたいに面白い」
としか言いようがないのだが、それを言わせないムードがあるとすればフェミニ
スム以前にまともな市民社会の掟さえ削除されてしまったのだ、と思う。
そういう事を一手に担ったのがその新興宗教なのだ、と思う。で、コミット
してる人どもはやっぱり幼稚な暴力男というジャンルの人たちなのだ。
・・・当たり前のことなのだが、フランスに旅行に行くのに10万円掛からなかった
りする世の中で、当の昔に才能が枯渇して情報操作とか弱みの握り合いで済まし
いるクリエイターの作ったものを、誰も有難がって買わないと思う。
個人的には木村拓哉に粘着したという話と、アナウンサーに色々強要したり
ファンが焼身自殺したという話で何だかこみ上げるものがあり、その時点で
クリエイターとしてどうこうというのより色々と重過ぎるよねと思う。
普通に流通してる手帳とか雑貨にはそんなマイナスイメージはないし、
糸井さんが薦めるからという理由で買い物をする人って見たことないのだが。
 問題はそういう人の粘着をどう離せばいいのか解らないという事で、オカルト
仕立てにはしないけど何か民俗学的な手続きを取らないといけないような気もする。
(憑き物筋に対するクリアランスみたいな)。その民俗学的な手続きが一体何なのか、
いつもはっきりとは解らないのがもどかしい。
付きまとわれて体調が似るのもやだなぁという気がする。頚椎とか内分泌に故障の
ある雰囲気だよなぁというか(もと喘息だったというのを読んだ事があり、それ
は私も同じなのでちょっと同情するのだが、直すために色々したことが全部無駄に
なりそうな所も怖い)。
 神経工学絡みのトレースが人の生体もターゲットにし得るのだとして、そういう
所が理不尽で気持ち悪いと思う。治験として扱えれば話は別なのだが。


アクチュアルな実体性にそのまま触れたり取り出す、というのはどういう事なのか。そういう事柄のあらわれがこういう抽象化したあざらしとか空間の鳥だったりするのか。

エネルギー態を実体として感じとったり思考することは出来るのだろうか、と思う。ブランクーシの彫刻もそれが乗っている大理石の台も柔らかく気分のよい感じで、眺めているだけで大変満たされた気分になったのだが、そういう時間が分割や分節可能なモードとして他人に看取されるというのはどういう事なのだろうか、と思う。
写真はその時のムードを取り出すが、それこそ複製技術としてこのあざらしのもたらした幸福感に届いてるか分からない。