エネルギー態を思考する

 習慣(個人的な所作)と言葉が組み合わさっている所に、ど
 ういうエネルギーが働いているのか、という一番シンプルな
 事柄が恐らく何も解明されていない。
 
            ♪
 形状と記憶がどう結びついていて、具体物として取り出される
 経路がどう確保されているのか、も考えつくされているとは
 言えないが、あざらしらしき物体を見てそうだと思えること、
 には意味がある(後ろで箱を頭に乗せて空気椅子してる精霊
 みたいなものが意味不明なのだが)。
 そういう生成のシンプルな感覚ってよいなと思うのだった。
 
            ♪
 レプティリアン(?)だったのかは解らないが家宮が中に
 落っこちない形の照明器具を購入。

産業構造下の「シンクロニゼーション」については「物理的集団的性格」(中井1931)が近い事を書いてる印象を持つ。そこでのシンクロはいつも記憶の神話的な層に到達してる訳ではなくてあくまでもモノに同期した個人と、その個人が所属している集団の経済的な利害の領域で起こるのだが、シンクロの幾つかは神秘化したり神格化出来てしまうのだ(それこそアウラや独特のムード、強迫や符号のため)。
その時に爬虫類の一族だの何か陰謀論的なものを媒介の中に視てしまうのはあり得る事なのだが、それだと陰謀論者になっちゃってシンクロニゼーションがほんとに要請するものが何なのか解らなくなるねと思う。
シンクロニゼーションはほんとのとこ、何を要請してるのか。その事を明確にするはずの科学者の科学的なスタンスって何なのか。よく解らず。