どうなのか

宗教が宗教としての境界画定してる方法や、
コップに入った水を単に飲むときの方法や、
哺乳動物が哺乳動物に接するときの態度や、
花に水をやったり、犬や猫や爬虫類にエサをやるときの態度や、
海で泳いだり、息したり手で大きい丸を作る方法は、
そんなに内在する意味が変わる必要が無いんじゃないか。


持ち運びで音楽聴くときの方法は、それこそWalkmanという商標の
ついたもの(ドゥルーズの晩年の作品には商品名そのまま出てる)
にカセットを入れて聴いてたときと、MDプレーヤーやCDポータブル
(巻きもどさないのでメディアの劣化がなく、好きな曲もすぐ取り
出せる。サイズの物理的な違いはある)と、Mp3の音源を入れ替え同期し
自由に聴けるプレーヤーがあるのと知ってるのだと思う。
好きな曲を取り出すのは凄く簡単になったし、どのプレーヤーを使って
音楽を聴いているときも、別段神の概念とか金銭とか悪や実存を殊更求め
て無かったように思える(ある種の気分にシビアに実存的な曲が合うため、
そういうものを聴いたことはあるが)。
どの機械のどの機能を使っても、それぞれが現実と見做してるものに触れる
権利があるだけで、その自由さを無理に放棄させればその機能のエートス
そのものが喪われるように思える。そんな単純な事が何故赦されなくなり得
るのか。