水平展開される市民世界像

中井「土曜日」絡みで、阪神間モダニスムというものが何故監視の対象になったか解らず怖い気分に。

実際問題そんな事まで監視されてどうするのという事象がインディヴィジュアル(分割不能)な生活には付きまとっており、何かの拍子に再構成されるとやっぱり分割不能なものとして現れる。
等々、普通にしてるとき色々考えるよねぇ、でも実際、隣の家も遠くのビルも絶対可視化しようと思わないじゃない、という気がする
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「差異と反復」の四章、差異の理念的綜合というところで、ドラマ化の普遍性とかとても怪し気な図式で差異化微分化の基礎論を展開している部分が、「偶有からの哲学」だと計算不可能なもの、神について書いてる部分と重なるのだなと思う。そしてベルナール・スティグレールが何となく分かりやすく感じられるのは、理念的綜合にプラトンがあるからだなという気がする(プラトニストとか技術論的主観の持ち主は、事態を簡潔にするし具現化したい事も明確に思えるのだ)。ああこんなにも理解しやすくなるのだなとぼんやり思う。
それをドラマ化と言おうと自己の記憶の再演と言おうと変わらないのだが、結局このモチーフを選択する事で自己意識がこう定立している、という帰結がある程度明確な場合に、それと平行して物理的暴力的手段(例えば洗脳)があるというのはどういう事か。その物理的暴力的手段を許容してるカルトは別段事態を簡潔にもしなかったし、もっと短期に明瞭に解明出来たはずの命題を、単なる混乱とか情報操作下での消費(糸井さんのような人が狙うような)に還元したと思う。煩いし端的にそんなものは要らないのだ。

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外出した先で、なんとなくもう少し勿体無い、という感覚を身に
つけようと思うのと(じぶんの幸福感について思う所があるからこそ)、幾つか
ヘンなものを見聞したな、と思う。例えば、レプティリアンはともかくと
して「地震兵器」と「Haarp」というのは何だったのか。誰も実証してないし
明かしてないという意味ではやっぱり陰謀論のパーツに過ぎないが、言語を
解さない疎通について空回りしながらその説を書いた(り、言ったり)した時、
一瞬その言明が説得力を持ちそうになったのだ(「何かオーロラ探査してる
ものが思考に働きかけてマインドコントロール的であるらしい。そういう
瞬間は確かにあって気疲れする」)。
あとは「雲は消すことが出来る」というのは何なのか。それを「水からの
伝言」という本の著者の方が爬虫類人の人と対談しながら言っているのを
読んだのだが。験してみて本当に消えたとしても、恐らく消えた事に
意味を見ないのだ。

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今日は「糸井重里 鼻につく」だよ・・・
確かに手帳の売り場に人居ないし、見ていて凄くかさばりそうだなぁと
思った。他の手帳にプロモビデオは無く、やっぱりすごいセンス(笑顔の工場労働者が出てくる)。能率手帳も他の手帳も、手帳のみで沢山人が居ましたよ…。
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アクチュアリティ、というより、今在る現実感の頭出しをどうしているのか、というような問題。
定立してから特に懸念もなく、ある種の言祝がれた景色を選びとって物事が現れる、という事が
あるのではないか。その事を感じていたから現象学を必要とした気もする。(自明でないこと、
の顕れを簡単にオカルトじみた解釈に馴染ませない意思)。