知覚の扉

…ファウルズの小説のような事をつらつら考えつつ、幾つかの考えを経由して不意に「知覚の扉」をいつか再読したいという気に(「コレクター」は脳というより精神的な器官にとんでもない閉鎖性を抱えた人間が蝶のように人間を捕獲する話だし、「魔術師」は生存感覚に倦んだ人たちの舞台装置としての神秘的な島と、そこで展開される何か浅薄な儀式と、窃視と、浅薄なのに生まれる悲劇か死と、みたいな話だったような気がする。人間が人間を描写するのに小説を書く事に納得がいったのだが、反面ファウルズの話が苦行みたいに感じたのだ)。
「知覚の扉」は、単にテクニカルに内的な体験を持とうとしたドキュメントだが、もし焼直しみたいな「洗脳」があるとして、そういった体験の内実に迫れてなんか居ない気がする。だとすればそんな事柄に完全な受動の姿勢を取る事も、じぶんの死因とする事も出来ない。
内的な体験は内的な体験としてあり、結局人は人に洗脳なんてされない気がする。

 でも「知覚の扉」は全然現実感ないんだよなと思う。洗脳というより、そこに意識がチューニングされていると
ちょっと現実遠くなる、という感じを、もう少し具体的で意味の通るものにしたいというのはあるのだが。