死すべきものは死すべき位置へ

・・・来年は完璧にある向きを死んだ事にしてからベンヤミンを読み進める事にする。
というか、じぶんなりに描いている完璧なダメ男像というのがあって、それは
やっぱり病気&幻想文学男なのだった。キモい。
仕事場から帰りながら、癌の癖に若い女と寝たいとか、大体ファンタジー
中でも一番煮詰った部類なんだよねと思う。
考えてみれば16の時に、現代思想研究会という所で今村仁司先生のベンヤミン
読んだ事があって、それはキモいものでも何でも無かったので尚の事、田中純
いう人の根源的な(下卑た)「貧しさ」を思う(これはラクー=ラバルト
ハイデガーを指して言った「貧しさ」でもある訳だが。ベンヤミンにしてもバシュラールにしてもあんな時代に多角的で極めて明るい人であり、だからこそ読みとりたかった)。
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グロと性処理から解放された書物、というか、元々本というのはそういう時空に
置かれてない時代から連綿と読まれるものだし、生きた身体というのは死んだ空間
を抑圧してごく普通の生体的成就に差し向けられていていい訳で、そういう心身を意識する
のに病む必要とか無い訳だが、何か、そういう時空に10年も20年も停留し続けるのが
芸の人たちなのね〜と思うと、究極的にはベンヤミンとも全く関係ない気が・・・。
 ベンヤミンが自殺で死ぬには惜しい人だったからこそ、趣味的な自殺に大変厳しく、
また自殺か他殺か解らない死の不可解さに何か潜勢的で、読み解くべきものの気配を
見る(そういう恐ろしい世の中になってしまったという事、全部が80年代的な感覚
への強迫が元凶の気がする)。
植物園での自殺というのは・・・そこに事件性があるのか何だか知らないが、明らか
におかしい時間処理でそういう事が起きうるのなら、何か完璧に単独な目線で
そういう出来事について詳しく知りたい気がする。
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何か認識論的切断について考えにくくなってしまって困惑した一年でもあったが、
じぶんの考えていることが一レイヤ暗くて煮詰った感じになるのはどうしたものか
ねともいう気がする。
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ベンヤミン読みながらハワイにも行っており、それは何ら矛盾が無かったのだった。
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糸井さんのばい菌事件もそうなのだが、何か独特の穢らしさと離れた所で表現出来ない
ものかねと思う。体調のおかしさも、多分汚物と近しい自己イメージを持っているから
というのが大きい気がする。

気分よい状態で居るときと汚物系男に迷惑を掛けられている時とで気持ちの落ち方が全く違い、一時期そういうアップダウンの修正に血道を上げてたような気もするなという気がする(昔は単に実存に関わる問題ではなかったか)。

異嗜食も含め、転換障害のおかしい反応をどう自分の生活感情から排除するか、という問題。何か妙なオペレーションがあって、自己意識の確保が弱くなっても他人の転換障害を自分が生きる事は構造上気分の悪いもので、要は盗撮とか妙なものの摂取(摂理みたいな韓国系カルト的な)や盗作が常態化している人の病理は、自分が生きられる訳ではない(そんなものは口にしないので)。にも関わらず(コンピュータウィルスもそうだが)強迫的に生活を損ねてくるとなると、それは殆ど固有名の問題になる。
要は汚物なら汚物を口にしてしまう人を自分の生活から排除しないと仕方ない訳で、その為には症候を名指さないといけない、という事なのかという気もする。 ♪
ベンヤミンもそうなのだが、上記のような疾病と引きがらみの複雑な事情を絡めずに水平展開出来るはずの哲学的スキームがあるように思え、ぼんやり「シャトレ哲学史」を読んでみたいと思っていた事を思いだす。

80年代というよりは言論バブルに対する強迫の問題で、あと言論バブルに寄生せざるを得ない人たち固有の問題があるような気がする。