単発の

仕事がらみのメールのやり取りをし、事情をお伝えし
駒場の方ほんとにスミマセン。一般の媒体の方ですが
大変おかしい感じの目に遭ってる旨伝えてしまいました)、
また、以前の仕事場の方ともメールでやり取り。カタログに
ついて二三聞きたい事があるので、備忘しておく。

容姿や生活態度で監視されていない事を前提に構成されているものってあるなという気がする。もと全共闘という人たちが他人のそういうモードに耐え得ないのは素朴になぜか不思議。 視制度の織り込みとグロテスク、というか、視られた女性が男性(同志?)としての実存を強いられるみたいなプロセスには精神分析的に陳腐な兆候があるのだが(ストリップティーズの妙に攻撃的な演出なんかもそう)、日常性と関係ないしそういう話に拘るのはうっとおしいのでパス。しかもそんなプロセスに神経光学だの高度な監視技術を使うのは無駄なのでは、と思う。

    ♪
歩止まり、みたいな感覚があれば少しずつ前に進む。ともかく、自明性とか具体性の中で色々と事を進めている
という事を忘れないのが一番大事かも、という気がする。(震災であれ、その他の事柄であれ、自分の心裡に
取り立てて読み込む必要がないものというのは確かにある)。
必要時を済ませながら、バランス感覚の問題みたいな事をいつにも増してしっかりやろうと考える。
    ♪
神経工学について、被害とか加害とかそういうテーマでもなく、問題が立ち上がったと思ったら
何らかの解答を自分の中で考えて出していかないといけない。そんな事を考えると、特に原発
関して、大槻教授はやっぱり科学的な態度を取っている方なのだなぁという気がした。
(問題事が立ち上がった時点で方向性と解答を提示する事)。

    ♪
物理学者の朝永振一郎先生(大槻教授の恩師なんですね)の本を、単純に関心があって何冊か読んだのだが、
(2009-11-04)→ずいぶん前に始めて読んでいたが、これ「呪い」だの「思考盗聴」だの変な与件が無ければ、
仕事の後家で買いためして読み通すような感じだと思う。
当然私に理解できるものでも何でもなく、ただエッセーの中に出てくるウィーン学派の方々のお名前を見ている
と、原子力発電の問題だけでなく意識の物理量と文学上の形式の問題についても言及出来るような問題提起を、
昔の日本の科学者はしていたんだろうなぁ、と思う(マッハはムージルに影響を与えていたし、「くりこみ理論」
というものの大本にある定理を考えたパウリはユングと共著出してるのだ)。差異化と形式の展性をちゃんと文体
に落とし込みするような作品が、日本語でも書けた(書ける)のかもしれない。
 そして、その可能性の事を考えると、つくづく脳という器官を即物的に扱ったり宗派的な申し合わせだけで意識を
語ったりする事は、科学でも文学でも人の関心を喚起するに至らないのだと思う。

(単なる一視聴者の立場で見ているから余計に、大槻教授が示そうとしている科学的スタンスと、他のオカルトとか
宗派的超越性がつぎはぎになった疑似科学コントラストがくっきり感じられる。後者のタイプの疑似科学って表向き
だけ違っても同じようなお話が繰り返し繰り返し出てくるだけの気がするのだ)。