転換とカテゴライズ/集団ではない

何かを見ている時自動的にそういう機能を使っていること。そんなもの一瞬もドグマを孕まない。端的に面倒くさいからだ。
でも暴力という動機は一度に抜けのいい世界に触れる事を禁じるためにある訳で、それがバランス悪く滞っているのは(一般的に言われてるような禁忌の感情と結びつけずに)、言説にたどり着く前に指摘すべきなのではないか、と思う。 ♪
イメジャリーの類型化は多分単純だが、治癒系や端的に抜けのいい視覚化には結びついている気がする。
ただ拘ると気抜けした感じにはなる気がする。
水にぷかぷか浮いているようなイメージは素でも深い幸福感と結びついているが、それが外在からだけでなく
内側から充填されるようなタイミングがある。

              ♪
集団ではない、というか昨年末から今年初めにかけて数名以外からほのめかされる事なんてない。
(穏やかな地域住民)。にしても、結局新左翼のクリアランスの取れてない殺伐とした感じが作ってる
メディア内の下地が、ひとつ誤作動の元かも知れないという事が言えて、若干救いになる。
(そういう連続性の上に載っているものって、結局どんな表現の形式−アートであれ文学であれ科学で
あれ−も同一法則、さもしい経済法則に還元してしまうのではないか)。
アンビエントやっぱりいいなという気がする。
              ♪
イメジャリーは文学理論のための道具としてというより、単にアクティヴ・イマジネーションなどと
同じような心裡系統からの自己成就を促すための方法だったのかも知れないが、文学全体を包括しない
気がして(アクティヴ・イマジネーションと同じく)ある時期それについて考えるのを放棄してしまった
のだった。
にしろもし「呪殺」が現に行われている事だったりそんなものが思想や哲学のテーマになるのだとしたら
(そこからしてカルトの起こした事件に対する反省的意識が働いていないので、思想としても哲学として
も駄目なシチュエーションなのだが)対置物としてそういうものを援用するしかないのかも知れない
なという気がする。(これは非合理な態度なのだが、もっと曖昧な魔術がらみの言葉が大文字の道徳
心を表すものとして使われてるような状況下だと仕方がないのかも知れないという気がする)。
所字か発話に結びつく言葉の前にある媒質を清明なものに入れ替えるか新しく充填するようなプロセス。
(本来ならその後にざっくり文節した心理的素材を書いたりする事の方が大切にも思えるのだが)。
チャーマーズは意識の問題を拡張した物理学として捉える、とも書いており、だとすればそれは脳の
プロセスや神経や内分泌の働きからだけ見てとれる訳でなく、周辺の時間や空間に充填されているモノや
直覚によって拡張される対象でもあるのだろう、と思う(「意識する心」が読み終えられてなくWikipedia
調べたら、そこで唯物論を否定して不可知の自然法則と哲学的ゾンビみたいな通常の認識的構成外のものを
措くのが、チャーマーズの「クオリア理論」なのだという事が解った。もう13年も前チャーマーズなど知らず、
単に形式上の「意識の流れ」の問題を考えたかったのだけれど、そういう考えている時の思考の素材を私的な情報と
しても心的状況としてもホールドされかねない、しかも大雑把なカルトが勝手にメンターとして君臨する可能性
がある、というのが気持ちの悪いところなのだろうと思う。唯物論の否定に異常な掛金と権限が担わされていて、
それが人体や人心への圧だというのはとても感じの悪い話なのだ)。