媒質の違い

つまりカルトが活用してる媒体や媒質とそうじゃないものの媒体媒質は成り立ちから含まれてる要素から全く違い、普通後者の中で緩く周辺事象から独立し、自分の心身を苛むオーダーは退けられているだろうと。普通ここまで意識化したら唯物論キリスト教ベースに意識とか内在を考えればよくて、わざわざ仏教系カルト(穢れ?)にウェイトを置くこともない。体調から何から誤作動するからだ。
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やっとおかしい感じが少しづつ抜けた感じがする。
「呪い」もそうなのだが発想のおかしいものと出来るだけ
心理的架橋が行われないようにする事。

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「現象としての人間」、通勤中に読む本では全くないのだが恐らく生命観が大変性にあっているのだろうという
気がする(内在性と生命圏というようなことが)。つい集中してしまう。この媒質。その衰微とはリレーションが
ない。
 タルカムパウダーのようなものが欲しいなと思い部屋の中を探す。が、ない。
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 「理性的認識は、想像力についていき、それが生み出す夢想の像たちを分析しつつ、
像の中にある宝を救い出さなくてはならない。理性の概念的な把握は、まずは想像力を模擬
しなくてはならない。その意味で歴史哲学の理性的行為は、想像力とその像のミメーシスで
なくてはならない。その意味でベンヤミンは想像力を復権している。個人的な想像力ではな
くて、集団的想像力の歴史的構成力を重視する。
 増はそれ自体では個々ばらばらである。像と像の間には連絡はない。他方、像はそのなかに
いくつかの要素を含む複合体であり、何らかの仕方で有機的に組織されている」(今村仁司
ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読」)
 メシアニスムもそうなのだが、自分の中を通って最終的に構成された思考に答えを出すものは
カルトと違うのだろうという気がしており、それが日常的なオーダーとずれるとやっぱり消去の
対象になるんだろうか、というようなことをぼんやりと考える(その宗派に違和を感じるのは
心理学だの宗教関係なく、単にえげつないからなのだが)。
 シュルレアリスムの実作というのは具体的なのだ。「パサージュ論」も書きながら具体化されて
いったのだろうと想像する。