身体の置き所と夢について/

 シャルロット・ペリアンの目録をパラパラとめくり読みしていて、書いた文章が二度三度
ループして感嘆詞を繰り返す癖があったことを知る。ガートルード・スタインの小説もそうな
のだが脳とか器官がものを感じて把持する時の、何か特別な癖に根ざしてるのか不思議に思う。
本当に久しぶりに家や場所の「ここに居るからこういう発想になる」という感覚が甦ってくる。
そういう事だけで現実と具体物、自己意識を結びつけようとしたがそれはあんまり上手くいかな
かった。(でも、ある体勢でごろっとベンチに寝転がったら身体の下の方から矩形の赤い感触が起こって
考えた、とか、その状態で目を瞑ったらシロツメクサみたいなものがフワッと舞い上がった、
という事は、あり得なくない筈。そういう時間を自分の身辺に置いておきたいんじゃなかったか)。
           ♪
バブルの話を滑稽だと思うのだが、フィッツジェラルドとか読んでると好況が異様に感覚的に先鋭化
した描写になっておりそれはそれで納得する事がある(リッツホテル? と同じくらい大きいダイヤ
モンドの話とか)。何かそういうものさえ無い(というより、広告代理店だの新興宗教に媒介された
ものでしかない)という話がひたすらに気持ち悪く感じられる。
(そういえばドゥルーズって何であんなにフィッツジェラルドの事ばっかり書いてたのか。それはとても
よく分かる感覚でもあるのだが、フィッツジェラルド出てくる人間がぜんぶぼろぼろの感じがあって、
あまり好きな作家と言えない)。
 欲望が何かに媒介されている話のイヤさ、と、それがあるから別段完璧に故障し切らず生きてるのだ
というのと。(でもその媒介する何か、が特定の手口のゆり戻しゆり戻しというところに、単に滑稽だ
で済まないようなおぞましい感じがあるのだが)。