構成

端的に構成されているものが違えば、構成される思考もものも違う。一時的に過度の心理化された素材がそういう構成の全体に働きかけようとしたとしてもそれは一時の事で、現象学的に考えれば構成されてる時空間と心理的素材は並行して動いてるのだし、その上で内包物を定めている。

雪がぱらついていたので横着してタクシーに乗ってしまい、そのタクシーの運転手さんがフロントグラスに架けている大きいロザリオを見てこの人クリスチャンなのだろうか、と思う(ことに意味はなく、端的に、たまたまそういうタクシーで飾りなんだろうかと思ったのだが、にしては細かい部分がしっかりお土産物的でないロザリオのように見えた。偶然そういうタクシーに乗っただけなのだが。こういう事が暗示に思えるようなお膳立てをしてチクチク心理的に累積荷重を掛けるというのがある種の人々の手口だそうで、気持ちが悪いので全面的に法規制すべきじゃないのと思う)

マインドコントロールの解除だの洗脳だの以前に、端的に日常的な感覚の中で何ご都合主義な事言ってるのこいつ、という人は、潜在的なたかりの構図に基づいてだけ動いてる。その構図がとうの昔に割れてるぶん強権発動と威圧がエスカレートする他無い、というタイプの言説は思想でも何でもないし、たかりの構図に沿った条件反射でしかない以上考えとか思い巡らしでさえ無い。
そういう構図にクリエイティヴィティだのものだの絡めるから汚らしい感じに見えるのだ、と思う。

電車の中でだけ読もうと思い、「ピエール・リヴィエールの犯罪」(文庫)とルナールの「博物誌」を買う。
・・・「博物誌」全くそれらしくないが、フランス文学だと言われてフランス文学なのだと思う本。子供のとき
読んだ。要は農民なのだ。「アニセ、またはパノラマ」もパリの農夫という副題だし、ピエール・リヴィエ
ールも農村の出身で、受洗に挫折したのだった。だから伝統的に農民や農夫が苦しい立場を強いられる国でも
あるような気がして、それと精神医療の単なる流用がよく結びつかず不審な気持ちに。
職場から帰る電車の中で、ベルナール・スティグレールの本の中で遺伝子組み換えの農作物の権利を買い取ら
される農民の立場に、スティグレールが同調していた節をぼんやりと思い浮かべる。そこには、なんというか
ごく正当な擁護と、ごく正当な新技術に対する訝しさの感覚と、でも技術革新に対する細い糸みたいな信頼感
があった。
スティグレールがどういう人か全く分からないにしろ、やっぱり予め叩く層を想定する思想家だのマインド
コントロールにウェイトを置く疑似科学とセットの脳科学者というのは、錯誤した存在なのではないかという
気に。何するために新興宗教の裏金に手を付けてるのか。
・・・分かりやすく私利私欲を満たすためにそうなんだろうけど、何かねと思う。
受洗の挫折もそういう出来事だったのだろうが、封建的なとこでお仕着せの濃ゆい宗派性が上手いこと個人の
知覚だの理性の連続性を作り出せないと、なんかもうひたすら凄惨な事件に結びつく。が、それを救済するのも
宗派性を転用した構造だった、という所に、フーコーラカンも(ドゥルーズガタリも)緊張感を持っていた
のだと思う。が、裏金を漁りつつばんばん病んで貰わないと個人のインカムが減るという事を、恥ずかしげも
なく(手を変え品を変え)表明する人たち。が、精神病もそうだが人の心理状態について何を理解してるのか
不明な気がする。