ピエール・リヴィエールの犯罪

・・・電車の中で3分の2ほど読む(これを以前もっと泥臭い翻訳で読んだような気もし、あんまりおどろおどろ
しいので忘れようとしていた気もする)。
 オーソドックスに「神の声を聴いて」心神耗弱になり殺人を犯したタイプの犯罪者の、尊属殺人が問題に
なるテクスト。妄想の背景にあるのは土俗的なカトリシズムと、家族に対するコンプレックス(というか、
客観的に考えても悪い母親とその母から虐げられている父親への哀憐)なのだが、こういうタイプの事件の内在項目
が外来の新興宗教から齎されるプロセスをまともに言葉にした方がよいのではないかと思う。
(神の声を聴いた事もないにしろ、神秘体験まがいのものが心的構造を絡め取って耗弱させるプロセスは多々あるのだし、
そういう出来事に唯物論的なフレームを作る作業というのは大切な事に思えるのだが、それはものすごくないがしろに
なりがち。それからこういう家族に対するコンプレックスが体感としてわかり難いと、やっぱりその宗派の神秘体験・・・
呪い? には全く肯定的になれない)。
                   ♪
呪いではなく端的に嫌がらせだとしても、一時身体全体がドロドロになるような不快な感じがあったため、なんとしても
この嫌がらせの基底で行われている事柄を解明したいという気分に(グロ儀式みたいな事してたらすっごい嫌だと思う
のだが)。
・・・ようは怨嗟を取りまとめて吸い上げてるのが件の新興宗教なんだろうが、別段不幸になった人が近辺に居ない場合、
祈祷で心理的圧迫感を感じながら生活する理由なんか丸でないよなと思う。
                   ♪
http://fr.cinema.yahoo.com/m/moi-pierre-riviere-ayant-egorge-ma-mere-ma-soeur-et-mon-frere/index-3442327.html

聴いて音が頭の中で繋がるが語彙力が無いため映画として聴き取れないにしろ、こんなとこからやり直すのも気持ち悪い
なぁという気に。
何となく多形倒錯をどんな年代でどういう形でやり過ごすか、みたいな事を思う(他人の多形倒錯を生きるのも自分が
倒錯の主体であるのも成人以降絶対イヤ、みたいな事を考えていたが、呪いや新興宗教の痛み分けが何のリアリティも
持てない仏教カルトから強いられるとなると不愉快な話だと思う)。
                  ♪
「博物誌」をぱらぱらめくり読みしながら、昔の仏文学者は偉いなぁと思う。

糸井重里の悪口を随分書いた。あとこの人は復興の支援だけをすればいいのだと思う。樋口可南子が変なcmに出てるせいで金だけはあるんだろうし。
それ以外の事は完璧にずれてるとしかいい様がない。いつまで80年代のつもりなのと思うとイライラするし、「出来ることをしよう」以前にありもしないもの(埋蔵金?)だの出来もしない事を煽りたてて来た人の気しかしないんだけどねと思う。