パウル・ツェラン詩集

(2007年にも09年にもツェランに言及していることを省み、これも単に内在的な整理の
為の備忘として)。
http://urag.exblog.jp/

・・・パウル・ツェランの新版詩集は購入しないといけない。丁度粕谷栄市と同じ時期。
外傷性と言語がいつも同じ位置に生成して推移するような痛々しい感じを覚えており、
外から干渉されなくても容が変わっていくし、かといって内から全然違う方向に感覚を
転換しようとしても、それが許されていない、とか、そういう事を考えていた。
ユダヤ的なものが拘りを日付に対して見出したり、カバラに基づく並べ替えを重視する
のも、結局外側の与件と内的なものを調整するのが自然で自明な事ではなく、努力を要する
からだという気もしていた。パウル・ツェランの名前のアナグラム)。
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18位でツェラン読んでる時に、共産党独裁はリアリティが無かったにしろ、ファシスト体制
みたいなものの縛りは結構陰湿に残っているように(いつも)感じられた。が、茂木健一郎
的なものはそういう事でもなく単にキモイ。何だかこいつが意識について何を解明出来るのか
さっぱり解らないという気がする。
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「・・・この調子で7年嫌がらせして来てるが、こういうタイプの

訳の分からない人たちに文化だの文学だのの采配が不当に与え

られて、ものの見方がある意味固定的になっているというのは

「陰謀」でなく、単にバブル以降の出版業界の売り方の問題だ。

(だったらいっそのこと、出版物は電車の吊広告になっている

あの雑誌だけにすればいいのじゃないかと思うが)。」
と書いたところ、

「ぐし(5)気付くためには、自分の周辺視野にあるものに目を配る必要がある。今自分が目的としていることばかりに気をとられ、他のものに目を配ることができないと、偶然の幸運を取り逃す。何か特定のものに「居付いて」しまってはいけないのである。やわらかく全体を見なければならない。」

 ・・・と書いていて、あと毎朝ごと人に自分のTwitterの内容をレジュメさせたりしているのも精神病質だから
というだけの事なんじゃないか、と思う。この尋常じゃない粘着ぶりとか雰囲気の穢さ、何に由来してるんだろうか。
異嗜食の事もそうなのだが、何かケンブリッジに行ったとか関係ない位根底の所で人間がおかしい気がして、人間と
しては魯鈍とかそういうのに近いんじゃないかという気がする。
・・・土用の丑の日に上機嫌で鰻を食べて帰ってから暫くして、たまたま点けていたテレビで鰻のお茶漬けを食べる
茂木健一郎を見てしまった時の衝撃を未だに忘れる事が出来ない。そこには、丼に鰻というより切り取った魚の死
骸に過ぎないようなものを乗せて居丈高に振る舞い、「茶漬けも旨いんだ!」とか言いながらお湯を掛けた一面茶褐色の、普通「お茶漬け」と言った時に人が思い浮かべるさらさらしたクオリアとは別容態の、何か止め処もない変な汁ご飯をかき込む動物のようなものが映っていた。そして、その番組には80年代に女優とかアイドルとか呼ばれていた人たち
が出演して、それぞれ美味しいと思う食べ物を紹介していたが、なんかちょっと気持ち悪い感じの食べ物を割り振られて
ねろねろ食べてる人と、そうでもない美味しそうな物を紹介している人と二通りあり、そういう構成自体テレビにデリカシー全然無い事を感じさせられた。だからわざわざクロスオーバーしてそういう業界の人が、真っ当な人間の生活とか
真っ当な食生活に言及する必要無いと思うのだが。それなのにそのクロスオーバーを、一番不当で一番グロを感じさせ
る形でしつっこく試みてるのが、糸井重里という人なのだ。
・・・茂木健一郎=絵的に気持ち悪いものに口突っ込んで食べる人、という印象もそうなのだが、何かある種の穢い要素
として人目に晒されてるだけで、意識の領域の話と全く関係ないだろうという気に。

                 ♪
ツェランはカテゴリとしてはシュルレアリストになるのが何だかちょっと不思議な感じもするなと思う。こういうの何を読めばよく解るのか、単に本だけ参照して読まないと駄目な気もするが、アナグラムも含めてユダヤ的なメディウムや媒介
物特有の見方というのがあるんじゃないかという気もし、それが何になら書かれているのかと思う。
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職場から帰り際に、さすがに粕谷栄市は本屋さんに立ち寄っても買えないだろうと思う。