3日で

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フンデルトヴァッサーがとても好きという風には思わないのだが、植物を沢山植え込み有機性をあらわす事のリアルな美しさとか矯められてない生命感のような
ものは、単に写真で建物の輪郭を見ているだけでも感じる。
 ・・・結局、ある場所に自生する植物の自生と再帰的な自生を敵視するのがイルミナティなのか知らないが、そういう発想自体が気持ち悪いのじゃないかという
気に。陰謀論の根本で陰謀の源泉になっているようなコミュニケーションに拘泥するというのは形式的にあり得る事であり、本来ならそのインタラクティブな要素を問わないといけない気がする。 ♪
意思表示はしっかりしておかないとキモいので書いておくが(仕事とかその他の人間関係に障るのも嫌なので)、私もはや表象文化論周辺の都市論をある種のスカトロジー(というか、ある発達時期特有のグロと多面体への固着、つまり都市でもテクストでもない
)としか見なしておらず、ツェランバシュラールユング
全くそういう要素と関係無かったように思えるので(やっぱり根っからキリスト教圏の人なので、少なくとも汚物を口にする事に固着は無かったはずだ)、以降の私家版的書き換えが全くそれらと関連しない事を念押ししたい。
糸井さんも茂木さんも何だかテレビでそういう要素の臭う役割を強いられており、何かその方面に紐付ける事に必死の教授に同族意識を持たれるのも迷惑という気がする。

久しぶりに横浜の都市景観をとっくり見つつ、新旧市街地がしっかり分かれてる方が自分の心象風景に響き易いのかも、と思う。カフカの家とか分離派会館の事も思いながら。
比較的そういうつくりになっている街並みでは規模関係なしに、旧い景観と新しい景観で喚起されているものが違うはずであり、軋みとか見えるものを媒体に写しとれば心理主義小説のようになるだろうと(これは別段何処の場所や地域も同じだろうけれど)。それとはまた別様の媒介物として言うまでもなく自然や水や川があり、領域が一つところに纏まるとき意識が発生することは神学的解釈に依らず神秘的に思う)。ベールイの「ペテルブルグ」とかエリクソンの「ルビコン・ビーチ」を読んだ事を思い出す。そんなこんなで発想していたものが(目詰まりみたいな憎悪犯罪まがいの巻き込みのせいで)ほとんどアウトプット出来ていなかったが、ツェランの小説を発想した時にそんな事も思っていたような気がするため、新版を入手すればそれだけは(ツェランに対する自分の義務感のようなものもあり)ノートを読み返しながら書き上げたい。帯の斎藤環さんの言葉を眺めて、でも災害のあとツェランを読むと心がばらばらに砕け散るくらいに悲しいような気もし、今全く感じる事のない希死念慮という感情が、ツェランを読んでいて尚且つ経済的に自立してなかった時、色濃くあった事を思い返す(ネリ・ザックスとの往復書簡を読みながら市バスの中でドロドロに泣いてしまった事があるのだが)。 ♪
「百貨店の誕生」を再読しながらうとうとする。