勧工場

 目が覚めて勧工場という言葉と現実の重みと、あんまり分け隔てなく感じ取って生きてる気分に。
遊園地だの過度にアトラクティヴな空間があって遊んだり買い物する、という事より早く、単にそれが
記憶された存在で(記憶に値するオブジェクトで構成されていて)思い出している事が実際にそこで
過ごす事のウェイトを上回ってしまうような瞬間が確かにあるのだ、と思う。
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そういう事を何処までも深堀して行くことも、足すこともマイナスする事も出来る。
(そこで何かグランド・レットルと呼んでいるもの、に遭うとか遭わないとか、そういう気がしていた。
先に身体の全体をそれにぶつけて弾力を確かめた後、具体的な重みと、単に語の質と、何が記憶されてた
のか・・・という事を確認する)。

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好きな色とか色を使った比喩的な表現という事でもなく、何となくイヴ・クラインのような感覚に近い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3
この中で青い色は神秘主義メディウムでも、単に身体情動を文節するためのものでもあり、実際何度か
美術館でクラインの青が入った容れものが売られていたのを(とても昔に)見たが、所有するよりそういう
感覚のものがあると意識する事の弾力性の方が(その場を占めるものとして)大事だっただろう、と思う。             ♪
こういう心身に閉じ込められないメディウムという考えは自分を虜にすると遠くまで運んでくれるのだが、
引き戻される現実感(唯名論的な、あった事の一回性で満ちたもの)を、無理に宗派で画定的に取り扱おう
とする試みは(自分が幾つか敢行し損ねた事にも増して)、とりあえず挫折し続けた、と言える。

通りがあって歩きかえるか感じ分けるかの切り替えみたいにしている(そういう深い、内的な差異の感覚)。

「糸の太陽たち」と「骨壺の中の砂」がいくつか、怖くて読めないような気も