予見性と詩について/

・・・吉本隆明さんの本もそうだが、震災直後にキューブラー・ロスの事を思い出し、
開いたら殆ど思った通りの箇所に、ロスの事が載っていたのだった。
そして「言葉という思想」はすごく久しぶりに読み返してみると斬新で、
色々と判明した事があった。
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議論の続きをする方の沢山居るところに行かれた、という印象。
何か文学作品を読んでても、何故かある一時期以外殆ど死とか
夭折のイマジナリーなぶぶんに惹かれなかった。それよりいっぱいの
海で溺れる位泳いだり、民俗学と国と家族にまつわる幻想を拡大したり、
言語像について考えたり、そういうことを未だにスリリングだと思う。のは、
多分批評の本のお陰です。(例えば感覚の事ひとつ考え始めても、そのスリル
や広々した言語像に追いついていないという気がする。みんな思想家じゃないのだ)。
機械を触る、そういうエートスについてぼんやり考える。

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太陽光発電のパネルについて単純に関心があるような時に、とっさに調べるのに
邪魔くさい思い込みというのは要らない気がする。今単純に関心があるのだ
(仕事がどうこうより単に、構造と燃費が)。

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茂木健一郎もそうなのだが、開いた口が塞がらないというか何でこいつ私の横領で
生計立ててんのとしか言いようがない、書いたことへの要らない返答とか丸パクリ
みたいなのが未だにうるさく、私に原稿頼んだほうが真っ当なの出ますよと思う。
これ以上しつこいと名前を晒した上で徹底的に批判する。(普通の社会だと面接も
受けられないようなタイプで、その分才能とかも無く他人の流用で食ってるって
何なのと思う。しかも汚物口に入れる)。
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震災についてもそうなのだが、やっぱり正確な記録というのはあっていいのだろうし、
背後に陰謀めいたものがあるのだとすればその冷静な分析というのもあっていい、と
思う。自分が罹患しないように気をつけるとともに、やっぱりおかしい感じの配信元
は冷静にどうかしてるのだ。
 所字も発話もなく思考過程が外化するとなると、色んな言語論の前提が変わってより
リアリティが空間化する。たとえば、その事に科学的に何か発見したいという思いが
追いついていない。みんな科学者でも思想家でもないからなのだ。
頭のなかにある言語像から幻想が発生するプロセスを、詩であれ論考であれ解明しようとする時、どうすると具体的なのか、そんな事を考えさせられる。