フンデルトヴァッサー

・・・用事があって京都に出たため、大阪まで遠征し見てくる(「運動」ではなく自然に住民投票原発
なくなった国の人の作品だと思うと、しっかり見ればよかった気がするのだが、何かこの子供なら器官
的に受け取れる多形倒錯がちょっと苦手に感じてしまうところもあったのだった。それは再三書いている
異嗜食のキモさとも通じてくるのだが。見ると全然別様で大変素敵な空間。あんまり情動的なドロドロ
感はない。考えてみれば子供にもそれはない)。
全景見て中をぐるぐる歩くと大変面白い。色々と考えが掻き立てられ、そのままぐるぐる遊びながら
長居してしまう(カラフルで邪気の無いモザイクの美しさ)。

妄想知覚と内在、というものより、当然そうじゃないものを多く(自分のある次元として)構成したり引き当てて過ごしている、という事に気付く(というか、そうある)権利。細かい差異がクラックのように走っていて、それは生体に及んでいるのだが、単純な分岐の感覚に還元される、という状態)。
…に納得。三半規管にくる建物だなぁと思っていたのだが、中に入って遊ぶとタイルの細かさが屈託なくて、色合い
もきれいなため感覚が刷新される気分になる。(全然バリアフリーじゃないがこういう所が一箇所だけあったら、
わくわく過ごせそう)。

 ガランとした場所に飾ってあるヤコブセンの照明器具の、やっぱり邪気のない、純粋に内在的な美しさ。
(人が居ないカフェテリアでした)

 影絵かそのままテキスタイルのデザインに使えそうな質感。思わず見とれる。
(2007年位から、ずっと青色を使っていますが個人的な趣味で、色に意味を持たせる新興宗教的な意図は
ありません)。

           
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・・・「摂理」っぽいもの全部無理。電車の中で樋口可南子の広告を見ると、やっぱりちょっと感覚に合わない顔
してるものなと思う(わざと舌が出るように口を開けたり、眉間に無理のある能面みたいな皺を寄せたりするのも
なんかその系列の人のサインなんだろうか)。そういえば私韓流も好きじゃなく、心身に対するピントの狂った
こだわりを見ると自然に頭痛してくる。「びゃー」とか「ぎゃー」とか言いそうな感じ。病的な外向性という言葉
を思い浮かべる。
・・・ナショナリストでないが韓国人だけは関わりあいになりたくない、という人は結構多いはずであり、糸井重里
茂木健一郎がそういう系列なら尚更、やっぱり人種的な差もあって毛嫌いしているのだという事を理解して欲し
いと思う。(歯止めとか間合いの概念が日本人と違いすぎてグロい。起源論でいくとどんな国も大差ないはずだが
呪いとか呪殺に近代化以降も拘るのも、何か特定の国のバイアスに思える)。
 ・・・ナショナリスム関係なく、単に感覚に合わないものって沢山あるはずであり、犬食べたり犬をやたら
と比喩に使ったりすることとか、軽い発狂状態のまま自殺すること・・・もそういう事のうちのように思う。
(3万人居る自殺者の中で、道連れ状態というか間接的にそういう脅威が影響していて、本来なら変死のものもあるの
なら、やっぱり取り締まるか民間調査すべきだと思うのだが)。
 他に同じ目に遭ってる人がどれ位居るか解らないが、やっぱりしっかり目に気持ち悪さを表明するほうが、比較的
体調良好に過ごせるように思う。
・・・「摂理」の「明るい笑顔キャンペーン」って凄いネーミング。手帳買って笑ってるマークがついていて、何故か
笑わなければいけないのも同じようなセンスだと思うのだが。
・・・これが高橋の手帳であればそういう変なオプションはないし、大体笑いたいときに笑えばいいだけの話なんじゃ
ないか、と思う。
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地域特性もあって「ほぼ日」的なものがイヤなのかと思うが、そうでもなく関西でも広告代理店が先導してるもの
やクリエイターなんかより、普通の感覚の方がまともですっきりしてるんじゃないかというような事を思う。

 ごはんやさんで食べたおばんざい。

美味しいし盛り付けがかわいい(ちっちゃいお茶碗に入ったご飯にゆかりがパラパラっとかかっていた)。

 何かどんな穢れに手操れてるのか知らないが、食品衛生とかにかかる事だけは言い過ぎる位言ったほうがよい
んじゃないかという気に(街の食べ物屋さんなんて、ちょっと衛生に問題あれば潰れてしまう事だってあり得る
のに、マフラーしたまま食事作るとか気持ち悪い)。そういう所に何も言えない料理研究家も凄い無能に見える。

                 ♪
http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009062601000657.html
これは凄いなぁと思う。(単に生活していたいという感覚のプライオリティが高いのだろうか。どんな国でも
それでいいような気がするのだが、そういう感覚に差異がありあからさまな詐欺師の歯止めが掛からなかっ
たりするのは、よく分からない)。

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 覚書的に


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そう成り立っているプロセスが自然物と融合したりしながら複雑に分岐しているような
景色(物質・言葉)に感じ入るところあり。
さざえ堂のあの変な感じも思い出す。

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細かい破片のタイルの一つ一つにどういう感触を持つか、によって現実の切り取り方、感じ方を測ることも
出来る気がし、イスラム建築の内装がタイルであることにも納得。象嵌やタイルの目地のカラーリングに
ついて、詳しく辿っていったら面白いだろうというような事を考える。
セント・バルバラ教会が面白い・・・これは見たい、と思うが、いずれにせよキリスト教起源のダイナミスム
に対して、仏教系カルトは解りやすく金銭(と汚穢)の繰り合わせをするものでしかないように思う。