ヤコブセンのランプ/要は60代

ヤコブセンのランプは、ヤマギワから出ており、高いが手の届かない金額でもなく、これも「ノルウェーの森」の家具と
同じでパイン材http://www.a-w.co.jp/CATALOG/JACOB/
 ・・・だと思うと、ビートルズの曲の空間性をそっくり再現したところには住めるし、物凄い贅沢だと
いう気もしなければ、あり得る景色だと思うのだが(北欧家具人気を考えると今っぽい)、
日本の全共闘の中でも、暴力と新興宗教を使って自己神話化した人たちというのは、未だに
人死にの出る景色に対してしか拘りを感じられず、それからしか自己意識の自立のフォーマットを作り
出せず、自然災害が起きようがテロが起きようがもはやバブルでもなかろうが、無意味に毀損しあった後
消費と蕩尽でもって解放されるお話しか描けないという意味では、出来損ないの存在であると断言できる
(普通の生活者に対して)。
そういう感覚と、一部の過剰な蕩尽と汚名のもみ消しが、自殺とか薬物依存の外因になってるんじゃないか
と思うと気持ち悪い。しかもそういう領域の人たちの表出(クリエイティヴティー?)はひたすらに
平板で、何かアクチュアルな生命感みたいなものが感じられない、という気がする(骨がらみの領域に対する
配慮が絡むので、考えてみれば当然かも知れないが。そんな裏事情の絡む食器や手帳は怖すぎるし、だから
手帳に「なんでもない日おめでとう」みたいな壊れたセンスなのだという気がする)。
(某女優の息子が薬物濫用で何度か逮捕された事があったが、あれと同じ田舎のやさぐれた無意味さから
何か意味を汲み取ろうと思っても無理のある話で、新興宗教がそういうものの吹き溜まりになっている
だけに過ぎないような気がするのだ)。

・・・1965年の日本ではあんまりこういう風景の部屋に住まなかったかも知れないが、だからと言って実存的に
悩んだ人がどっろどろになって自殺する話が何十年も引っ張られるのは異常。そういう年代の人に買い叩かれて、
本来ならさらっと内省的に過ごせる筈の2、30代で自殺が多かったりするのも異常。
村上春樹さんは凄い作家だと思うが、都市空間であれ部屋であれ人が死にやすい舞台装置をつくる人に不信感を
持っている(殆ど死しか実存的な経験を表さない、という薄っぺらさが露呈するようで)。
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大阪を歩いていても全然ストーカー行為めいた目に遭う気がしなかったが(以前行ったときは本当に「ソース
の二度漬け禁止」って書いてあるとこでご飯食べて笑った)、なおの事吹き溜まりから
毎朝同じようなことを書いてたりする(しかもこっちの状況を織り交ぜる)精神状態のおかしさに
対して疑念が沸く。私の何に対してマインドコントロールが必要なのか言ってみろよと思うのだが。
(むしろ人間の癖に犬の躾みたいなものが必要な人を洗脳すればいいのでは。こういう人に食育されたら
死ぬ、という人が料理本のプロデュースとかしてる異常さ)。

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グーグルロゴにマリメッコのウニッコが居る。

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・・・吉本隆明さんに追悼の辞を寄せる識者の、要は60代、という感じに愕然とする。
思想家や詩人にとって60代は別に問題でも何でもないだろうが、思想を商業ベースに載せる人に
とって60代というのは、自分の商業(消費)感覚と具体的な経済がどんどんずれてずれて訳がわからなく
なる年代だろう、と思う(結構「昭和軽薄体」で検索してくる人が居るのだが、90年代には既に擦り切れ
ていたその文体をなぞっているようにしか見えないエッセーとかで、未だに本の量産だけしようとする
人が居ることの卑猥さ)。そのずれを埋めるために新興宗教の財源があてにされていたり、悪評を不自然に
もみ消したりしてるのだとすれば、ずれと軋みに対価を払い続けるしかないのだろうから、それは幾らお金
があったって足りないだろうねという気がする。
 思い切ってそういうおかしい6〜70代の識者を捨ててしまえばどうなのか、と思う。


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フンデルトヴァッサーの建物を見ていて、やはり手間が掛かったとても素敵な断片の集合体だったので、
尚のことつまらないもの(一部の業界人のそれらしい衒い)に若年が対価を払わされたり、下手すると
そういう人たちのプライドを支えるために洗脳されるシステムをとんでもないなと思う。
陰謀論とはまた別のお話にしても、いわゆるスピリチュアリスム系の事柄(それは見え透いた暗示と
慰撫と、それを埋める少しの希少な物質性で成り立っている)を構成するのに、純粋なものつくり
のスタンスと違う姿勢で集金システムを組み上げている人たちが居り、糸井重里のしている事も茂木
健一郎の理論も(クオリアは、物質性と暗示につけられた名前に過ぎないのではないか)そういうものに
過ぎないように思う。
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・・・いわゆる「ヨゴレ」の人について結構書いたのだが、男女共に汚物的なものを口に入れる人、素の
友人に居たこと無かったような気がする(「女に困ってる」領域だとそうでもなかっただろうが、そういう
ものに対しては観察的な距離を取るためはなから関係ない)。
 樋口可南子もそうだが、明らかにおかしい感じの役割を強いられてる人に対して、滑稽さと薄汚さしか
感じない。そういうのももともと日本という国には無かった手口のように思うのだが。
 自分の使ってる手帳に愛想振りまくという訳の分からない発想もイヤなのだが、リフティングの跡が
びっしりこめかみについていそうな雰囲気を見るととても気分が悪くなる。

端的に自然災害とイニシエーションが重なった年の、イニシエーション(それは醜悪な教祖に科学者が絡んだテロだった)が、普通の生活者には迷惑でとってつけたような代物だった事を思いだす。