ことばの格子

・・・調べものをし作業をし気分転換に出かけた先の本屋で、ツェランの詩集はもう一冊充填されていたため、
購入して蕎麦やで山葵せいろを食べながら読む(かも南蛮的なものが食べたかったが、あんまり太って
なかったとは言え若干ダイエットというか、「霊感は太る」というアホな発言はいつ思い出しても
むかむかする)。ツェランを読んでいたときの事としか言えない感じが思い出されてくる(陰謀とはまた
違った意味で、いろいろあるんじゃないか、と思っていたその時の事。9.11もまだだった)。
 同時期に読んでたアドルノとレーモン・ルーセルのことを思う(前者はアウシュヴィッツの後に詩を書くのは野蛮だと
いい、私はアドルノよく理解できず、じゃあ小説ならどうなのかという風に考えていた。後者は書きながら自
分の思考と所字がまぶしくなってカーテンを閉めてしまったのだった。ツェランの詩とはまた違うけど外傷性
として言葉を捉えていたんだと思う、けどその内実がどんなものなのか、どうしたら解除し得るのか、
早いとこ自律しないとわかんないじゃないかと思っていたような気がする)。端的に「権威主義的パーソナリティ」
みたいなものに苦痛を感じる。そしてなぜ「アドルノ」ってついてるインテリアエレメントが結構多いのだろうか。
http://www.m-one-m.jp/pitem/128922261 割といい感じ。

                     ♪
そのころのノートをもとにツェランについて何を考えていたか思い出そうと思ったが、そんなもの
探し当てる前にいきなり新しい構成から書き重ねてしまった。(こんな風に毎日書いて手を加えないと
いけないとその頃は思っていた)。

パウル・ツェラン 最後の一週間

数日前から 思いはそこにあったが
もうそれと決めてしまった人の 意識の流れについて書こうと思う

頭蓋の中での固着 記憶とそれにまつわる いつも反証としての言葉の

それを眺めたとき、先に瞼から凍った
閉じた瞳の上をこすっていくいくつもの鉤

動かない視界に遠くから動いて
たどり着くものがある 

決まったバランスの枠から逃れる
ことがゆるされていないとしても
たどり着く、ものにあわせて幅を
逃れる たとえば羽虫や 何かの
綿毛のように。

敷居とか域、厳密な境界線、ある場所から
本当は永らえるはずだったものをつれてくる
魂が、まずそれらを描くのはなぜなんだろう。
すべて、名前を持ち姿をとどめ、どれにも
固有のこころと重みがやどっていた、その
面影をひきながら、なぜかそれを呼ぶときに
白います目や土地と土地の境、水平線や直角
に刻まれた建材の一部、そんな過度に名前を
消し去ったものを導きの糸として思い浮かべてしまう。

しかもその姿よりさきに、われわれが敷居や境界線に過ぎないものを、
すぎるとき、思い浮かべるのは個々の名前を持った存在
としてしかあり得ないのだ。

だからそれらと棲んでいる、と言える。
呼んでいるように棲み始めたのだ。」

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私自身に自殺願望とか全くないにしろ、一旦そういう話にはまるとクリアランスを取らせない
日本の文学(というか、言論)空間、ほんといびつなんじゃないかと改めて。
マインドコントロール騒ぎや昭和軽薄体みたいなものの市場化もそうなんだが、何で文学者は
怒らないのか全くの謎という気がする。(そういう安直な話と、80年代の消費のリアリティみたいな
ものから、今ある場所のリアリティの頭出しが出来ないままだとしたら気持ち悪すぎる気がするのだ
が)。
 書きながら、私ツェランについて書きたいんだなぁと思う。(あれこれ考え出してしまった。
何処に出すかの問題はあるにせよ、形式としては小説が一番まともに体裁を作れる。が、中井論も
どうにかしないといけないという気に)。

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震災に遭った方の事を思った新編纂、だという。そうなんだろうなと思うのと、悼む意味と、
被災地のプライバシーの事などについてつらつら。
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ツェランのような人について考えるにはやっぱり自明性と、超越性に対するきっぱりとした態度が大事で
あり、つくづく変なカルトに思考を明け渡すことのおかしさを思うのだった。(だから帳尻あわせに汲々
とする生半可な「識者」なんかより、単に生活してる人のほうが、ツェランの言葉のありようを見て取り
やすい気がする)。

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電車の中で樋口可南子の広告を見ると、何この下卑たババア、と思うと共に、糸井重里の汚い雰囲気も
そうなのだが、大恥掻いてる数名が例外的におかしいんじゃないかという気に(見るからに汚物という
感じ)。50面下げてセーラー服着てるのもそうなのだが、やっぱりその傾向の人という気がする(
汚物っぽさ。大体が左翼の隠語は最悪だが、新左翼が数名分汚物引き取らせた人を伝統的にどう
呼んでたかという事だが)。
そういうのと自分の心身が腑分け出来てないような感覚にはぞっとする。どうでもいいんだよお前、
というのが心境としてぴったり来るような。(そこそこどうでも
良くないことをさらっと内省出来る立場が全部気に喰わないのだろうという気がする)。
・・・「子午線」を読みながら、ビュヒナーの「ヴォイツェク」と、勝手に髄液取る医者とかとどちらがグロい
のか解らない気分に。
 更に、このニュースのさもありなん、という感じもその宗派的なものを
代表してるなぁと思う。http://news.livedoor.com/article/detail/6395644/ 
(テレビを見ないにしろ「テレビでほのめかししてる芸能人」っているような気がし、何だか共通した行動や言動
があるようにも思う)。

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ある時期の習い性で、メタフィクションのようにある人の一日を辿るか再構成することが可能なように思っている。

ラカンではないが欲望は大文字の他者の欲望という考え方に則り、感得しているオブジェクトから自己意識を再構成する時に、スッとベタな欲動以外のものを内部構成/外部展開しているのではないかという気に。ベタな欲動の座を訳の分からないもの(某カルトがそうするように穢れたものの供給)で満たそうというのが洗脳みたいな努力だし、不可知の領域から取り込もうとするとチャネリングみたいな事にもなってくるような気もするが、感覚も自分自身もどこかで均衡し、特に超越していない具体物に戻っている。
これはフィードバックの問題だ、と思う。
代替医療にもつながるが特に悪いフィードバックが起きない視座とリアリティがあるのではないかという気に。そこから。私的な構成というものについて再度考えさせられる。
「このようにして、わたしたちが物事たちについて語るとき、わたしたちはつねにそのものたちの「どこから」と
「どこへ」をも問いかけているわけです−これは「未解決にとどまる」「けして終わることのない」問いかけ、
そして、ひらかれたもの、うつろなもの、ひろびろとしたものを指向する問いかけです」(パウル・ツェラン「子午線」)

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ビートルズTPPと同じだとして、65年以降にリアルタイムでビートルズと一緒に輸入されてなかったのは(新左翼
受容していなかったのは)、即物的な変性意識とか逆輸入みたいな禅の概念なんじゃないかという気がする。それが
90年代にずれ込んで例の事件が起き、今カルトが増幅しているとして、MKウルトラみたいな出来事が結局どう
人身を構成/再構成するのか(「陶酔論」と同じ流れを引き出せるはずなのだが)。TPP参入するのなら「即物的に」
どうなのか知りたいのだが。
その過程で、通常なら神秘主義体験にカテゴライズされるようなことに大幅に唯物論的解釈を付与する必要がある。
代替医療のトリック」もマージナルな治療法を並列して検討可能な形で箇条書きにしているが、チャーマーズ
「意識体験のカタログ」と同じで、含まれる内容がカタログ風になるというのはある気がする。
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ツェランを読み返して、ユダヤ人の居住区画に対する考え方に感じ入る(プラハシナゴーグを見たときに
感じたことでもあったけれども)。個別の区画に個別の魂を還すこと、そうし切らないこと。
母の賛美、みたいな生臭な詩を決して書き得なかったファシズムの被害者。(そういう私情が詩として中吊りされて
いるような体制の不気味)。
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以上のようなことをたかられず、仕事しつつ私が書けばいいだけなのではという気がする。
実体として、意識変容がどういうものなのか、を解題すること。
・・・二度、読み返しながら、本から呼ばれるというのはこういう事なのだと感じ(「子午線」から予想外に
影響を受けていた)、初めて読む節もあるのに若干の予見を持ってツェランの言葉を捉えている事に驚く。
「逆光」からの連想、だけでその場所を思い浮かべそうな。(本当に久しぶりに、内在的に読むことが回復される)。

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manger trop bu bien dormirをひらがなに開くと何かキモいというか、そのキモい言語感覚で自分の父親より
歳が上の汚いオヤジが何故か自分の通信内容とか個人的な環境の事を微に入り細に入り知っている事の恐怖。
(耳から汚物を流し込むような教育姿勢が透けて見える)。
全共闘の自殺好きも生産性低いが、結局反動化して何やってるか解らない「識者」なんて全部取り払って、
福島に住んでる人の直言に原稿料をあげた方がよっぽどましな気がするのだが。
 それからキモい状況を数人分器用にこなした女性を誰が引き取るか、というところにいちいち他人の環境を
巻き込まないとすまないのも精神病質。そういう下世話さは新左翼「市場」特有の気もする。
(不思議なことに右派はそこまでげろげろした感じが無いように思える。というか、「いやな感じ」を
読むと隠語の運用は右派のほうがえげつない先入観があるのだが、新左翼とそういうのが入り込んだメディア
が一番単細胞で汚らしいんじゃないか、という気がする)。