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bobbinsmall2012-03-25

・・・仕事も問題なく、まとまった分量のものをツェランに対してアウトプット
出来そうに思う中で、ほんとどうしょもない検索語で調べられているので
覚書として。

・・・まず「インテリアコーディネーターの仕事の辛さ」ですが、IC自体は全然辛い仕事じゃありません。
上にずらっと並んでいる、変な業界人みたいなものの嫌がらせとかやくざとかそもそも建築(建物)でなく
外傷と精神分析の対象物みたいなものにフォーカスするような経験野に巻き込まれなければ、家電業界とかに
比べて女の人が長く仕事しやすい業種のように思います。(家電が総崩れになったのは、製品開発が技術で
どう抜きん出るかとか特許の取り合いとか博打みたいな領域にかかってストレス過剰になったからじゃないか
と思っているのだが、生活産業というのは生活に密着してずっとあるものなので、それまで積み重ねたことが
すぐ無駄になる、という事が起こりにくい。あと商業デザイナーは概して長生きの印象があり、自殺した
人はヤクルトの容器の剣持勇さん位しか思い浮かびません)。
 提案のために工夫するのは楽しいし保険にもなるため、そういうものを確保しておくのは良いことだという
気がします。(上記の画像は随分前の提案書だが、この程度でもまとめると単なる生活空間についてリアリティが
ある感じ。3点ユニットの解体とシャワーブースの設置とか勉強になりますよ)。

                  ♪
その上で、「昭和軽薄体」や「糸井重里 批判」や「内田樹 人格障害」なのだが、要は大文字のメディア
の中で博打を打ち続けてきた感覚のずれた人が、芸能人間で足の引っ張り合いをするだけでなく民間人にも
嫌がらせをしており、そこにカルトが絡んでいる、という背景があるらしいにしても、そもそもOL全般が
そんなとこから筋違いのプレッシャーを受けながらする仕事じゃないような気がする。

・・・特に「昭和軽薄体」について、平成も24年経っている以上どんなものか知らない人が大半のように思えるし、
それが流行した82〜5年に幼児だった私もその文体の衝撃に対して実感なぞまるでない。が、もと全共闘という
人たちにとっては未だに、暗く実存的な内面(森田童子とか昔のフォークみたいな)と記号的なポストモダン
風景と、話し言葉をそのまま書き言葉化するカジュアルさのコントラストみたいなものが鉄板の表現なんだろう
なという気がし、その両方に違和感がある(逆を返せばそういう所でおっさんに引きを作る為に、まずカジュアル
話し言葉をちらつかせてから暗い内面を発露する、みたいな気持ちの悪い行動を取る事もあり得る訳で、何か
野島信司のドラマみたいにぐちゃっとしてるなという気しかしない)。
 ・・・たまたま出先の銀行とかで手に取った週刊誌に載っているのを目にする程度なら気分悪くなる気もしない
のだが、本能的な欲求をやたら擬音化して文章に混ぜる(「ぱくぱく」とか楊枝で「しーはー」とかソース「だぼだぼ」
とか)ものを書籍の形で買う意味が解らず、しかも内田樹先生についてはそれを時期外れに女子大の先生(で、哲学
専攻)の人が書いたため、何となく意味内容が厚く文体に既視感があったというだけの話じゃないかという気がする。
そういう観点から見ると内田樹先生の本は見事なまでに「昭和軽薄体」のエッセーのタイトル二番煎じで、原田
宗典とかと区別がつかないのだが(更に言うと、「バカの壁」以降の茂木健一郎とこの人のベストセラーは、全部
安直な既視感頼みで作られてる気がするのだがどうなのか。しかも、広告代理店が作った仕組みなのに
そこに「クオリア」だの脳科学の内実があると本人が思い込んでそうな所が怖いのだ。そこから他人を教化する
ためにカルトの洗脳に走るのなんて一瞬の気がする)。
 更に「内田樹 人格障害」かは知らないが、その程度のものを市場化するために他人の家の盗聴を元ネタに
していたりカルトに献上する人を物色してるとなると相当迷惑という気しかしないし、そもそもその新興宗教
に頼まないと何も書けない程出版業界自体がタイトな所なのかという気がする。90年代前半の、女性作家が
どんどん出てきてエクリチュール・フェミナンみたいなものが面白かった時期には芥川賞作品を全部読んでいた
身としては、80年代の焼き直しのおっさんを外せばそれでいいんでは・・・という気がして仕方ない。
(あとこれは余計な事にしろ、娘さんの名前の「るん」というのからも変な昭和軽薄体のおじさんのメンヘラ
臭みたいなものを感じるのは私だけなんだろうか。実は本能的欲求の擬音化で一番えげつなかったのは「ルンルン
を買ってお家へ帰ろう」であり、その「ルンルン」は林真理子の性的欲求だったような気がする)。
 ・・・フェミニスムとは関係なく、単に自分のリアリティに暴力的に横付けされたくない・・・と思っていても、
今更昭和軽薄体でしかも新興宗教のバックがついており、思想家が亡くなると「時代は軽くなるでしょう」という
認識はとても気持ち悪い気がする・・・(とは言ったっても暗いのは暗いので気持ち悪いのだが)。
大体一番最初にどうでもよくなって、買ったり読んだりしなくなるタイプの文章という気がする。
(パクられてるのに仰天しながらブログを読む事はあっても、数冊図書館で読んだだけの為よく分からない)
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ダイアンサス・ブラックアンドホワイトについては結構楽しみです。あとカーネーションもパンジーも沢山芽が
出てきたため、咲いたら愛でようという気に。(これについても単に自己意識だけを参照項目にして、そのうち
書きたいと思っているのだが、病床にあった中島敦の「おれんちのぱんじい」という作品はとても美しい。
モンティセリの絵の事をつらつら思い出すのと同じような感覚で思い出され、ユラユラする花の形とその
間を埋める町や部屋の中の事を、とても心臓に近い所で感じ取る)。
 
                      ♪
つくづく何が「昭和軽薄体」だよと思うのだが、平成に入って90年代のカルトの問題をクリアにしないまま、
軽い文体に新興宗教暴力団のバックがついた、という話はキモ過ぎる。そういう間にあるリアリティと
自己意識が永続しているリアリティを、しっかり目に分けた上で、個別の内在性を取り戻したい、という気に。
(カルトの事件に対して充分クリアランスを取って臨んだつもりだったのだが。某弁護士さんの記述で、その
カルトもやっぱり信者同士汚物を口にしていたという事実を知る)。

                      ♪
 安部ねり、地球外生命は気になる・・・
 でも安部公房が世界に通用する作家というのはよくわかるような気がする。分裂病だった事があった
 としても、ほんとは外在のものを感知する意識というのはあんな風に書かざるを得ないのではないか、
 という気がする。
 家のものが安部公房の初版本のコレクターだったため全集も含めてよく読ませてもらったが、マシナリー
 で不合理な感じが実は外在するものを拡張した感覚で、それも並行する現実に他ならない、というのは、
 意識の問題にとって大きいのではないか、という気も(ちょっと東欧とか旧ソ連っぽいけれども)。

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電磁波 スタンガンについては、接触せず内実を探る方法が本当に電磁波なら(そして私だけでなく
被害を受けた人が居るのなら)、賠償すべきだという気に。しかもパクりの主体が正攻法だと書評を
載せたり何かを分析するほども本を読んでいないのなら、そちらを排除するのが真っ当な気がする。
たぶん「今時の若い人」で本当に必要として本を読んでいる人は、私の比ではないほど色々と必要な
ものを読んで物知りな気がするため、そういう人がじぶんの生きているリアリティを表明し易くする
ためにも、パクリと仕込みとカルトとおじさんは消えた方がいいように思うのだが。
                  ♪
こんな目にあった人について論文なんか書けないよ、と思っておんおん泣きながらツェラン
詩集を読んでいたことがあり、たまたま卒論の一部がツェランというだけのお話だけにしても、
もし今後ツェランの名前で検索する人が居たら、その人のために祈ってください、と思います。
普通人は、言葉と、傷と(これは生半な状態で使うべき言葉じゃないと思うのだが)、居る場所を
重ねないのだが、この三つがずっと同じかたちで心理に棲みついていた人なのだという気がする。
喋ってる時は気分が上向きとか、暖かいとこでソファに座ってると喋らなくても幸せとか、辛い
時は居る場所を変えてみるという情動のやり繰り(と、忘却)を根こそぎにされるのがトラウマ的な
状態だとすれば、そういう状態の支配を受け続けていたのだという気がするが、そんな中でも出来る
だけ安住出来る場所を作りたいというのはユダヤ的な感覚なのかも知れないという気がする。震災だの
何らかの外因で居る場所という感覚が希薄になったとしても、それを元のとおりに(最小の単位から)
自分の記憶に埋め込めればどうにかなると思わせてくれる詩という気もします。
(なので余計に、震災直後疎開を煽った事も含め、下らない感じがするのだった)。
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こんな面倒な手続きなしに、スーッと読み継げるはずだったものが沢山あるのだが相当迂回したため、
意識の流れについても練習で文章を書いてみる(メチエとして毎日書かないと!)。
・・・いわゆる原稿書きの間に、何故かこちらの状況を糸井さんとかが知ってることの気持ち悪さ。
糸井重里 批判」で検索している人たちは、この人物がそういう代物だという事をしっかり
認識して下さい(他に女衒のような行為と、パチンコ屋と、碌な事してないじゃないのという
気に)。
 樋口可南子は、なんかみっともないというか他の2名に比べてO脚っぽく見え、しかも50代で
セーラー服となると、基本病んでる感じがし、そういう恥ずかしい代物を晒してるストレスで
私の個人情報に手をつけるのかと思うと、迷惑極まりない。根っから地方出身の人の感覚に
甘えない限り、クリエイターとして存在出来ない代物だという気がする。

根っから田舎者向けの下世話な「バリエーション」商売なんて何も解決せず、具体物としての言語と現実が何を媒介にして定立しているのか、等々考えだす時の簡潔な広がりに比べると無駄なものが詰め込まれているだけなのだが、嫌がっても下品な干渉を続ける習性は本物の猿の三倍くらい猿を感じさせる。

     ♪
アントニオ・タブッキが亡くなったんだ。じぶんの分身のような詩人をずっと追う、ということはすごくあり得る
経験のように思っている。