暴風雨・不自然な読書

の後の天気。

親指姫乗っかってそう。


自然物から自然物があるかのように行われる読書があればよいのにねと思いつつ、もう少し不自然な読書を続けるつもりで、出先の本屋さんでシュタイナーの「悪について」を購入する。唯物論に対して霊界の遍在をとき、悪である事によって救われたり霊性が進歩する可能性がある、という考え方の真偽は解らないが、それがとんでもない独善と結びつくときに、カルトのイニシエーションみたいな話になる(「悪人正機」という考えを悪用すれば、形態的にはそういうものになるだろうし、そこで人間と動物を混ぜるとか汚物を食事に混ぜる、みたいな過度に気持ちのわるい表現が行われるのだ。「糸井さんの正妻
になる」とかいう発想にぞーっとし、80年代か90年代に女子アナのストーカーをしてたらしいこの人は、結局過剰な働き
掛けで人のまともな感覚まで自分のもののように奪取してきただけの似非クリエイターじゃないか、と思う)。
 団塊の世代の幼稚な教化とか、他人をコントロールしたがる権力欲がどういう形で保存されてるのか分からないにしろ、
内部にある悪の感覚を外部展開することが試練だ、という考えをシュタイナーは全く気持ち悪くなく取り扱っている
ように思う。ヴェレダも気分の悪いものではないし、シュタイナー教育だってそれほど歪んだものではないような気がする。
 にも関わらず、比較的どうでもいいコミューンみたいなものを、特定世代だけが普通の社会や共同体に対して強要するのは何故か。悪というのは自己粉飾にも役立ってしまうので、端的に呆けており老人特有の症状に手のつけられない暴力衝動と哲学の片言(というかパーツ)が混ざるだけだと考えるべきのようにも思える。

「悪について」変な本。グノーシス主義というかキリスト教に対する異端の意識で、書かれている概念に意味や意義がどうあるか客観的に考え抜くことは全く出来ない(そもそも悪の定義としてルツィフェルとアーリマンがあるとか、それが人間にとりつくという考え方自体どうなのか、というより何なのか。あと「第五アトランティス期の人間に犯罪が増える」と言われた場合の第五アトランティス期って何か)。
このよく解らない感じは、神秘主義の常套として「考えるな、感じろ」と言われてしまうようなものなのだろうが、私は例えばきれいで座りやすい椅子が一脚あることに内在している意義に比べると、どうしても悪を経由した第五アトランティス期の脱却をひどい話だと思ってしまう。新興宗教はそのひどさに生きた身体を滞留させ、それがやっぱり特定の宗派とかそれに増強された詐欺師の権力欲に権限を還しているらしい(しかも比喩的に生贄と呼ばれるようなワークに、勝手に供出している)という事が分かったが、ノーベル賞なんかどうでもよいのでそういう欺瞞の構造を解明した上で、感覚と個人の意識の権限を突き詰めて考える人は居ないのかと思う。そうしないとその宗教はいつまで経っても詐欺師が財布代わりにあてにするものに過ぎなくなるのだと思うが。
フリーメイソン儀礼だのについて色々と書いてあるが、一般論として新興宗教絡みの通過儀礼は汚なく不快な気がする(求心的だからというのもあるだろうし自我欲動をそれで刺激して、神秘主義体験に対置させる意もあるのだろうが)。それが韓国系のカルトの場合、恨の感情が混ざるのかと思うと、相当面倒くさい。
     ♪
コンランショップのものを使うことになる可能性も0ではないのでであんまり不用意に書くべきではないような
気がするが、コンラン卿セレクトはたまに植民地主義モロ出しだったり、難しいのだが大英帝国のイヤな感じの
大人の男チョイスの雑貨があり好きじゃない。大英帝国的ななんか誇示してるっぽい花器とかは相当恥ずかしく、
色々と見間違えたことがあった(北欧雑貨はそういうところありません)。