精神的自由の確保

について、ヨハネス・イッテン結構おもしろそう(シュタイナーもそうなのかも知れないが抽象物をじっと眺めて確保されるそういうものもあるはずで、身体の内奥から心理と結びついて構成されるか、場所そのものとしてあるか、いずれにしてもその帯を通じてクリアになるということ)。
ただそういう極度に精神主義的な手法が現実の中でどれくらいのボリュームをもつか、リアリティーがあるか不審という気に。

目とか耳とかが感じて構成するものを他から奪取し得る、というのと、予めそれを超越的な統覚の領域に見ておくというのと。

ツェランの切り詰めた詩の語法や運用からもそういう要素を感じ取ることもある。

電磁波として周波がどれくらいの色を赤として眺めているか、が人間の感覚質をどう形成するか、だけを継続して問う意識なんてないのだし、それを継続して問っているのは外界の刺激に対して何も感覚してない意識だろうという気がする。(カラーセラピーのような話にもなる)
俗流的に感覚を取り出す手続きから何を実入りとして得たいのか、なんていう事とおかまいなしに科学的な事実はあり、それを一気に可視化される必要もなく生きられてる時間とか、色彩そのものがある。