そういうこと

(昨日)パウル・ツェランを電車の中で。エドガー・ジュネという画家についてのエッセーを当の画家の絵と一緒に眺めながら、当たり前の事だがパウル・ツェランという人はパウル・ツェランの詩の名声などというものに一切紐付けられている訳じゃないと思う(単にエドガー・ジュネの絵が好きなひとつの感覚だったのだと)。凄い詩は詩人の偉大さとかそういうものの現れでもだしでもないと(偉大さって何か。色々と考え得る無垢さと媒介物を適切に言葉で表すのは偉大だが、そういうものは予め偉大とされる詩を目指さない)。
アドルノがどう言った、スーザン・ソンタグはこういう人だ、というのは全部後のことであり、一時期じぶんの腑に落ちていたという事と全く関係がない、と思う。

生活と生活のあいだに全く可視化されない不透過のゾーンがあること(擬制ではなく)
それは多分高度監視社会が到来しようがおかまいなしに不透過であり、しまいには高度監視社会や洗脳技術の方にそう言ってしまう(おまえごときに見張られようと不透過なのだ・ここまではしみじみと一昨日までの発想であり、それ自体他人と関わる必然性はない)。

寓話や神学的テーマとして、考えていることは既に外部(外在)に記憶されている、という見方があるとして、その外在は選別的であり緩やかに進化の方向に引っ張られているというのはありがちな考え方なのだと思う。(オメガポイント理論みたいなものもそう)。それはほんとかわからないし愚にもつかない可能性も高いが、寓話としてのボリュームも在って心理が結ばれてる素材として、人の精神史から切り離しきることも出来ない気がする。

花火が水の表面にうつり水の表面から地表に汲まれている。水は膜状の眠りに見えるが、それを確かめているのは誰か。

俗流クオリア理論は何というか射的のようなイメージであり、監視技術なりオペレーションの方法のような道具はあったとしても心身問題の核なり前提になっていたような段階は全く踏まえられていない。当然のように自分の稼ぎで再生産に結びつくよう考えているところ、資格について攻撃とかどんなジャンルのキチガイ男だよと思う。
 …ここまでバカだと「アインシュタインは身内を殴っていたがノーベル賞を取ったので、俺もそれ位許される」位短絡してる可能性もある気がし、大体科学のみならず文学もなめてかかり過ぎなんじゃないかと、凄い気持ち悪くなる。