それほどの/

柔らかみのない色だがチューリップやっぱりかわいい。

光が当たっているときもよい感じであり、これは原種もよかった
だろうという気がする。
アジサイが盆栽に株分けできるくらいであり嬉しいかぎり。

        ♪
たまにどうしょもなく湧き上がってくるSilly Thingsを聴きたい
という気分と、

http://www.youtube.com/watch?v=bjdXdSnUZA8&feature=related


何に対する制止か全く分からないものに永く気味悪い思いをしていた
感触が、完全に消えるようにほとんど祈るような気分に。
(実際「うるせーな」とか言ってもいけないし思ってもいけないという
制止、それが新興宗教から出る、しかも人を死に追いやるというのは
どんな事態か。あとダイエットとかうるさい男って大っ嫌いというか、
うじゃじゃけた実存ってあるなという気に。シド・ヴィシャスも嫌い
だった。実際今後何も死ぬなという気に。これは昨日聞いたお話に
ついての言及)
死に追いやられず「わ〜洗脳された、神はキモいし思考が抜けると嘘臭いよ」で
済まそうとする壮絶なみっともなさと同じジャンルのみっともなさ。自己意識の(Silly thing)。

       ♪
クオリア」=大層ないいもの、というのも大嘘と赤っ恥の構成物で、
感覚は感覚で十全であり、よいのではないかという気に。
       ♪
人間の脳から赤い色を取り出したい変質者を最初に科学者と呼んだ奴を
殴れ、と思う。
        ♪
仕事がみっともないとよくないのでちょっと歯噛みしたりしつつ、最もみっともない
のはカルトだという気に。
        ♪
今ならツェランのみで100枚書けるだろう。これは単に義務だが、以前は
途中で心がばらばらに砕けてしまいそうになり、どういう人か輪郭だけなぞるような
気分で居た、というのが実際で、まだデリダツェラン論さえ読めていない。
でも、「デリダツェラン論」の問題でもない。不合理な死の不合理さはなんだか
何の捻りもない事を実感する(その話に抱いた感慨を奪取する人間が、建築について
書くことも死について書くことも何のリアリティもない。私はもうとっくの昔にそんな
ものを読んでいない=テクストとして理解しようと思っていないのだ。単なるグロテスクな
病理の巣についての言及であるだけで。そこには汚物的なものが、本当に建物に対する
呪いみたいに滞って棲みついていたのだ)。