まだらも

一輪あった

素朴実在論/外在性と機械/思考の外部性…

どちらにしろカルトのバックアップと、脆い現象(人間の命の有限性も含む)が限られた、たまたま
金銭的リソースが多い領域からいじられることがおかしいのではないかと(もし暴力団とかが絡んでる
のならなお更のことだけれども)。

素朴実在論的な領域に人身が在ることを全然下らないとも遅れてるとも思えない身としては余計に。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E8%BA%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C

…どんなに素朴なかたちであれ「デカルト読んでみないと、どうですか」というのを、その筋の人
(卒論の担当教師)に聞いたことがある立場であれば、心身問題に深入りすると離人症的になることを、教わって情動
だけ脱輪しないように運動なりボディセラピーなりを措く。その後勝手な論旨が出てきたとしても、
「脳に帰すことが出来ない身体的な問題系が切り捨てられる」というのは当然出てくる疑問で、
例えばヨハネス・イッテンのような人は多分、神秘主義者なのだが、ジムナスティックに振舞うことに
よって得られる<間>の感覚や色彩は、最初から脳が知ってるものとはいい難いだろうし、幾らおかしい
話とはいえその時に視える神秘主義的なパースが今だに科学的発展と補いあう関係にあるということはないのか(相補について変な書き方を修正しました)。(このあたりはきれいに中井正一の問題提起にも重なる)
そんな事関係なしに車検明けの機嫌のいい感じの車でお散歩。空がいい感じに高い。

シュタイナーと比べるとやっぱりベンヤミンは「唯物論者」なのだと思う。
そして手仕事というタームはやっぱり悪くないと。

単純に覚え書きとして。デカルトが松果体について何を書いているか初めて知ったが、リフレクソロジー松果体の反射区は両親指の真ん中。心身をセラピーを通じて統一体としてイメージする場合、トリートメントするのは結構重要な部分なのだが、そういう手段を使っても自分の身体や脳といった器官をただもの論的に扱う問題圏に巻き込まれると意味がない。

感情と感覚が個別に分岐して定立している点がある、という事の素朴な重要さ。 ほんとはそこに唯名論についての議論とかがついてくるはずだが、俗流クオリア理論ほんとに何なのか。気持ち悪いしイラっとする。クオリアの研究、と銘打たれてても実態は何も考えられていなかったのではないかという気に。その状態で韓国系カルトに従属させようという魂胆に、えっ無理、と思う(なんかもう、ひたすら気持ち悪い)。