心身問題/抽象と感情移入

全般にあまり関心がない。にしてもある見方がフレームアップされて物としての心 身が外在的に問われる場合、おかしい部分は是正する必要がある。そんな事をつらつら(心身問題や心脳問題は端的に要らない立場に思える。そこから俯瞰する主体がオブジェクトとしての身体なり心なりに練れた態度を取れないならば、気分よく過ごすために単に関わるべきじゃないのだ。デカルトがまともだったのは怪し気な身体論を持ち出して他人を巻き込まなかったから、とかまで言わざるを得ない位、ある種の心身問題は僭越で嘘くさい)。
心身や器官情動がリミッタとして作用するのは致しかたない事とはいえ、抽象化することによってそんな有限性を抜け出ようというのは正統な考え方で、ツェランの「子午線」にもそんな要素を見る。

ツェランブランクーシについての詩を眺める。

「わたしは見つけます、なにか−言葉のように−非物質的に、しかも地上的なもの、現実的なもの、円環をなすもの、両極をこえておのれ自身に立ちもどるもの、しかも−愉快なことに−熱帯地方をもよぎっているものを。わたしは見つけます…子午線を。」(パウル・ツェラン「子午線」)

心身問題に携わらなくてもある種の問題提起が人の心身を客体化し苛み得るとしたら、ひとつくらい自分の主観と分断線を引く必要がある。
というより、その分断線からしか個体としての所字も発語も始まらない、始原の線は単純なものという気がする。
     ♪
本屋で「抽象と感情移入」を探すがその本はなく、替わりにようやっとようやっと「デカルト省察」を。
おいしくない黒パンにそこそこおいしいブルーチーズをのせて食べる。
フッサールふつうにプロテスタントなのだ。ロックフェラーもプロテスタントみたいだが。それが信仰の対象にはならない
とはいえ、なんだかリアリティと媒質を問うときにプロテスタントが輪郭を決めているような感覚はどうしてもあり、困惑
する。事態は仏教系の一部のカルトなんて差し置いて、そんなものなんだと思うのだが。
     ♪
「意識する心」をまともだと思えるのは、最終的に色々な神学なり心理学的構成を並列に扱っているところであり、
最初に「私には強い心霊的あるいは宗教的傾向はない」と断り書きがされているところなのだが、予め特定宗派から
資金提供を受けていることが明らかな人物がこの領域で余計な事をウダウダするというのはどうなのか。


 迷惑、という気しかしないが、全員おかしい感じの傾向があり、他者表象未然のところでゴミみたいなものを
作っているだけの人たちな気がする。この二人の汚物感はほんとに嫌なもので、普通のまともな生活を送っていたら
こんな人たちに関心を持つなんて一切あり得ないと思うのだが、病んでると他人の生活圏に勝手に手をかけるのだ。
糸井重里については私以外にも被害を受けている人が入るような気もするし、デイリー・メイルだか何だかの盗聴
も問題になったのだから、司法なり行政はこの人の方をしっかり監視して膿み出しして欲しい。
・・・末端の信者さんは別にしつっこくほのめかしするという事もないのだが、ほんとうざいのはその媒体に依存して
金銭還元しないと体裁が取れない一部の業界人だという気がする。が、たとえば「意識の問題」は新興宗教の利害
なんかと全く無関係の組成を持っている。