成長/カタログスペックの参照/九十五億円

・・・すぐ大きくなるのでびっくりするのだが、これはまだ本葉では
ないようです。漫画の中の植物のデザインのようでかわいい。

カタログスペックを見るときに、数値で表してあるものと別な感覚的なもの(照明なら「明るさ感」とか)があり、スッとまとめらるようにメモをこまめにとっておこうと思う。

知らない人に分裂病呼ばわりされた事があったにせよ、必ず分裂病体験の例としてパトグラフィーの本に載っているムンク「叫び」、九十五億円、すごーいすごい。私に幻聴の体験はないが、ロマン主義の昔から一筋縄じゃいかない病理の意味を、カルトがいじっていいのかねと思う。
発症にあからさまな人為が加わる、というのはおぞましい話のような気もし、そんな事で分裂病(統合失調)にさせるシステムがあるとして人に迷惑掛ける側として加担する事自体あり得ない気がする。が、この病気の疾病利得をあざとく表現に結び付けてきた人たちはそうじゃないのだ。
もし病理に内在する意味と発症のルートに一般的なもの(遺伝的な問題やドーパミンの過剰分泌みたいな説明)以外のものがあるとしたら、やっぱりテクストにして残しておくべきと思う(とは言いながら、私全く統合失調じゃないわけだが)。

 カーステレオから原発全停止のニュースが流れてきて、LEDへの切り替えのことなど考えるとなお更数値化できない
微妙な感覚が分かるの大事という気分に。
運転気をつけなければねと思うのと、それにしても私の何が分裂病か言ってみろよという気に。改めてイラっとくる。
(悪いけどその手の本なら、読まなくてもいいものまで読んでおり、恐らく現代思想絡みの疾病利得とそれ以前の70年代
の良心的な臨床に基づく病理の救済との感覚的な違いについて、ある程度人を納得させるような事も言えるわよという気が
する。なんのかんの言って80年代に病気を食い物にしていた人たちが反動化してカルトと組んだ事、プレモダンとも言い
難い呪いが思想の中核になる事に憤っている。キリスト教徒ではないにしろ、ある人が重篤にオカルトや呪いにはまって
いて、反対給付として呪いを諌める言説をばら撒き、承服するのが成熟の証だとしたらカトリック教会の免罪符より酷い
じゃないかと思うのだが)。 ♪
リアランスが何故取れるのか、を考えたとき、ブランショが書いているように聖書には一定以上の役割があるだろう、という気がする。お話の中心に据えられるのが全ての人間の罪を背負って十字架にかかる人神であり、復活があり天国があるというのは単に刷り込みとして人の精神に永く影響を及ぼし得るし(だから例えば自然災害で亡くなった方に対して、その生がそんな構造のどこかで贖われている事を強く信じる事も出来る)、それは利益誘導のため悪意やら悪想念を都合よく解釈して不安を煽るスタンスと素材からして異なっている。が、その事を大袈裟に考えなければ世の中にはわざわざ呪いという素材を通じて現前してないものが沢山ある(ヤコブセンの事を日記に書いたが、かわいいので蟻の形の椅子を造る人に他人を呪う暇はない気がする)。
しかし呪いは一方向に滞るし、その中である主体に対して超越的に振る舞いたければその主体の信念体系に手をつけるか削除するのが一番安直であり、妙な居心地の悪い感覚を覚えるのは申し合わせてそういう事をする人たちに対してだ。端的に自分の感覚域から排除した方がよいと思う。

呪いやオカルトもそうなのだが、糸井重里内田樹先生に対して感じるのはそういううんざりした感覚であり、端的に要らない、と思う。
相変わらず「糸井重里嫌い」で検索してる方が多いのだが、目付き変わる位の尋常じゃない射幸心と宗教団体の裏金に手をつけるパクり常習犯に煩わされるのなんか一瞬もイヤという気がする。
     ♪
「思考盗聴」についても、そういうものがほんとにあってテクニカルフェーズがある場合と、単に個人の誤作動の場合と
両方考えなければいけないという気に。いずれにせよ断定的に統合失調を言いつのれる精神科医など居らず、もし
そういうものが居るとしたら精神医療史的に大変悪質だと思う。