コピーライターという仕事

・・・もし仮に、副収入をコピーライターで稼ぎたい、とか考えたとして、糸井重里がしつっこくブログの内容
を真似て居た、というのは意味があるのかと考えてみるのだが、
コピーと広告というものがすごく嫌いな気がする。
話自体が全く成り立たない気もするのだが、「売ろうとする商品」がないと意味を成さないので、コピーも広告も
よく理解できない。というより、心理的な項目が全部「売ろうとする商品」の場合、コピーや広告はすっと腑に
落ちるのだろうが、逆にそれがどういう精神状態なのか聞いてみたい気もする。 精神状態が全部ヒット商品であるかのような意識って逃げ場ないように思えるのだが(市場のてんでばらばらな動きは伝統哲学の制約を逃れた逃げ場や遊び場なのか?ヒットメーカーや興行師と哲学者や臨床のある精神科医はやっぱり単に別の存在であり、それぞれ伝統哲学や権威としての分析家になんて全く回帰しないが、市場化の不自由さからだけは常に逃げたのだという気がする)。 ♪
当たり前の話なのだが、被災は売り出すべき状況ではないし、復興のために被災地のものを買うのは大事だけど、それより大事なのはパチンコ屋の取締役で得てる収入をかなり沢山被災地に還元する事なんでは、と思う。人の射幸心以外持ち出しのない収入だし(パチンコ中毒の頭の悪い親のせいで、また子供が亡くなったし)。いくら復興支援のためとしても、「被災の事実で儲けたい」とは言えないというか、基本的にそういう事は言わないものだが、糸井さんという人は割と難なくそれを「ほぼ日」に書き、私としてはやっぱり考え難い発想なので、色々と前提を疑う必要がある気もする(普通単なる覗きとか窃盗犯をクリエイターと言わない訳だが、それだけやってきた人なのだ、という目でみる必要がある)。
全部がパクりと符丁なのじゃないか、という気もするのだ。だとすれば権限はもとの発想の持ち主に還されるべきだし(例えばチェブラーシカにそっくりの変なキャラクターは、偶然チェブラーシカと似ていた、という話を捏造してるみたいだが、単にチェブラーシカのパクりなのじゃないかと思う)、そういう病理的な行動は単に糸井さんが病んでいるから、の気がする。

単に病んでる、のに相互乗り入れ的に人を病ませるための強迫的な行動って、バリエーションとか広がりみたいなものを持ちえない気もしており(解体のために表向き多様化するのか)、人はやっぱりそこに死臭みたいなものを感じとる。その状態であれこれ言う糸井さんは相当にウザいし、結局のところそういうものは誤魔化し出来ず固有名と結びついた形で外に表れるような気がする(糸井重里=パクり、という事として)
 この場合の「病んでる」というのは、自我境界が真っ当に保たれてないので、すぐ免疫不全か自家中毒みたいに
なった上、男だとギャンブル依存症とか女だと整形中毒か自己言及オタクになるようなジャンルの人の事なのだが、
端的に迷惑、と思う。
    ♪
昨日の「ほぼ日」の内容があんまりにもじぶんのブログとかぶるので、色々考えたが、まず私は樋口可南子みたいに
おばさんでも整形でもない。にも関わらず、何故か旦那の病んだ迷惑行為を通じて私がおばさんの整形代金を搾取
されるという、何か構造的におかしい話になってしまう。
・・・CMもそんなに好きじゃないといえばそうなんだが、女優としてもそんなに大した人じゃない気がしていて、イモ
というのとは違うけど、何かのうしろめたさから女優として取り扱われてる人の気もするのだ(演技力があんまり
無いんじゃないかという気がする)。
「○○という程の○○じゃないよね」・・・の割と分かりやすいかたちというか、そういう人は得てして奇矯な行動
(役柄)を取りがちであり、その分のストレスで盗用に走ってる旦那が昔はクリエイターだった・・・というだけの話なのだと
思うが。