・・・中井にしろベンヤミンにしろ(ツェランはともかく)、メディア論者として秀逸過ぎ、という気がする。
(何が媒質で何を媒介するかについて、ふっと肉だの霊だの離れた、何か分からない宇宙的な素材感に
触れる気がし、その感覚が具体的なもののように感じられるのだ)。
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に、比べるとどーでもいいと思ってしまうのだが(第一本当に原稿料をもらえる仕事をIn design使って
仕上げる重要な役目があり、その事に必要なのは単に実際の建造物で重要視されてるある種のすっきり
したミニマルな感覚だ)、四の五の固有名、というより実感を離れたトリヴィアルな話ばかりかき集めて
も具体的な時間の流れの変容だの、もの(外在)には触れないという気がする。そういうものを自分の
感覚から出来るだけ外していきたいと考えた時に、セクシスト(というより、自己有徴化のために色々言い過ぎて
明らかに性癖が変な男もくわえ込んだ挙句発狂状態になってるブス)とかは壮絶に邪魔臭い。
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 そういう色物ブスが駒場に居り、周囲はコンプレックスを見透かして相手にしないようにしているのだろうし、
どうも日本語の発想段階で貧相なので論文を書き切らないまま海外流出しただけの人のように思うのだが(とか
何とか・・・あんまり書くとソレルスの「女たち」よりは確実に・・・ウェットで下品なので・・・特に拾い食いみたいに
ゴミ扱いされてる男とかスカトロ男までくわえ込んだ挙句「フェミニスト」とか言われても・・・文系センスエリート
として主張したいんだったら、人間関係に引きずられて他人の口真似するのをまず止めるべきなんじゃないの、
と思う。ブス特有の分断工作が論文の大本なのだとして、それ以上の発想がないのは本人の資質の問題だと
いう気がするのだが)。
「美学者という程の美学者じゃないんじゃないの」とか、「コピーライターという程のコピーないんじゃない」
「明きメクラとかそういうジャンルの人」・・・切りがない気もするが。
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 固有名とか特異点は確かにあるが、全部他人が造ったものでしょ、じゃああんた単体で何考えてるんだ、と
言われたとき、硬直状態に陥る人たちの捨て場みたいなイメージを駒場に対して持ってる。
(それでせいぜい80年代から95〜6年位までの、どうでもいい文化的遺産をねちねちひっくり返して凌ぐのに
新興宗教とかえせクリエイターと組んじゃったねという感じなのだ)。

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癌で亡くなった、ヴィジュアル系の走りみたいな現代思想がかったバンドのボーカルの人に何の思い入れも
ないのだが、ああどうでもいい成熟不全のモードに拘ってると自業自得でこうなるよねぇという気がした。
(そのどうでもよさは、多分本来はドゥルーズとかドゥルーズ=ガタリと関係ないのだが)。

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 仕事場から帰りつつ、結局どうしょもない事として「差異と反復」の事をつらつら思い返す。
 18位で最初に読んだ時に比べて、文庫版の「差異と反復」は異様に近い感じがして、その心理的
 距離感の無さがものすごい不気味に感じられた。ある種の伝統的な神学だの何らかの抵抗(精神
分析的な意味での)が
作用してれば、ドゥルーズっぽい感じと自分の理解力には何らかの阻隔があって、いきなり「この感じ
分かる分かる」となり得ない気がする。
 カルトが一方的かつ抑圧的に個人の情動を精査して、紙一重の向こう側を決めたりするような状況だと、
いきなり無媒介に「ドゥルーズの言ってること実感あるな」となってしまうのだろうか(読む機械として
の本、だの、外界の差異を検出する機械としての本、ってそういう事なんだろうか)。
 ここで、集団ストーカー(とか、ある種のメディア絡みの迷惑行為)に苦しんでいる人が居るとして、
ドゥルーズを読んでみるとちょっとは心理的な気持ちの悪さが取り除かれるかも知れない、というような
事を思う(ほんとに被害を受けてる人の役に立たないような形で、そういう事をいい散らかしても仕方
ない訳だが)。
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ばたばたと習い事に行って帰ってきてから、ツェランについてもう一つふたつ。 ♪
センスエリートとしての我の捏造、というのは「茂木クオリア理論」みたいなものの形成にも大きく関わっているお話であり、世間はこの人が「意識の謎」を解明してノーベル賞を取ろうが、何らかの傾向の臭うきな臭い脱税者として印象付けられようがあんまり気にしていないと思う。単純にそういうものと独立して自分の器官としての脳なり、身体情動なり、意識があればいいと思っているだけだ。でも本人だけはさして用意もないまま「意識の謎を俺が解き明かす!」となってしまい、朝から愚にもつかないものを仮想敵に仕立て上げては、増強手段を新興宗教に丸投げしたまま、それをレジュメさせてる訳である。
正直言って私にはこの人(というより脳科学全般)が意識の起源を解き明かすとは思えない。思えないばかりかそれは、まっとうな形式を持った文学やアートや単なる日常生活(そこには、震災も含めて「なんでそんな事が起きたのか分からない」痛切な、それぞれの一回性が含まれる)を広範に抑圧するし、実際脱税の時点で市場に迷惑掛けている訳だから、輪を掛けて下らない事を目論んでるだろうと見られるのが世間的な感覚のように思う。
が、自己暗示的に「自分が意識の謎を解き明かした世界」を組み立てた上で、ヒステリックにそれを喧伝してると妄念が強化され、それと反比例して日常のニュアンスに満ちた感覚や情景が脳の中で死滅していくのだろう。素朴に、そんな人を外せばしっかりした若いクリエイターに金銭なり立場が割り振られるのじゃないか、と思う。

どう考えても自分のやりたい事は、自分の定収入で賄っていけるが、自分が自殺に追い込まれたりパクられたりする世界は迷惑だし、私の発想で他人が原稿料稼いでいるような形式はおかしいのだ。
チェブラーシカもそうだが、引き続き東京糸井重里事務所の盗用の手口については、目についたものを羅列していく事にする。

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・・・毎日こんなのばっかりなのだが、普通の感覚の人間は愚にもつかないことで「クリエイティヴでしょ」と言わない訳で、それを延々してきた人が底の浅さを指摘される、という事が、一つくらいないとしょうがないと思う。
・・・「書籍バブル」もそうなのだが、どうも私には糸井重里という人が書店に圧力掛けるかどうかして、さきに部数だけ
上積みしてるような気がして仕方ないのだ(そういえば内田樹先生のTwitterに、中国で出版された本に「日本で100万部
!」という記載があったというお話が載っていた)。何だかもう、全体に異常な人たちなんだという気がする。
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五年前から延々「差異と反復」については言及していて、つくづく思うのだが西欧社会はやっぱり基盤がキリスト教
なのだ。だからいきなり仏教系カルトに神学が「接続」されたりする事は無いはずなのだが、そのあり得ないことが
日本では起きている。
・・・ナショナリストになる自信も理由もないにしても、別に日本という国自体無くなる必要も無いし、反動化して
エスニシティを楯に暴力振るいまくりの左派を、ドゥルーズが存命だったとしても重要視しないんじゃないの、という気がする。
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顔つなぎの営業で方々で身体出したおばはん研究者を教授の後妻に入れる過程と、ベンヤミンは全然関係ないし、私
の人生は最初から私のコントロール下にあるものなので、そこらへん勘違いさせないようにしたいと思う。