電車の中で/抽象と感情移入を購入

bobbinsmall2012-05-19

デカルト省察」だけでどうともないので、「現象学とは何か」を読む。
・・・出先でカタログ収集して色々とお話を聞く。
あんまりにもかわいい、太陽光発電をテーマにした着ぐるみが太陽光の説明をしていた。          ♪
Chemical brothersを見に行こうか、どうしようかというのが一つあり、その
前に気持ちの悪い感覚を全部取っ払ってしまいたいと思う。とはいえ、一時期
より相当気持ちの悪さは消え、何となく言語化出来たら下らなさの質もわかった
ような気に。
(Salmon danceという曲がとてもかわいいのだが、中に出てくるサミー・ザ・サーモン
という魚がどう見てもシャケではなく不可解な気分に)。

          ♪
17、8年使っている白檀の象つき鏡がだんだんぼろけてきてしまい、でも好きで
仕方のないデザインなので大事に使いたい(これと同じものは一回も見た事がない
なと思う。鏡のスペアは購入しないのであったとしても買い置きはしなかったと
思うが、ちょっと後悔。もう一つの気に入っている鏡のほうもデザインだけ見ると
もうどこで買えるか分からない)。

「あー、楽しいな」とか、そういう事を言うのが似合いそうな姿。かわいい。
楽しくて思わず伸びしてるのか。
(白檀の扇子もそうだが、使ううちに変色してきてしまい端がすすけているが、
白木の洗浄剤を使えば元に戻るのだろうか)。

         ♪
具体物とその周囲を巡る光と色彩の流れみたいなものを、自分の心裡を数えこんで
思い浮かべる。

         ♪
どちらにしろフッサールを通勤中に読むのは何となくそぐわないのだが、そういう
時間も使わないといけないなという気に。
ここ10年くらいで、本当に脳の中の情報にアプローチする方法だけは俗化し、言語
が媒介にならないで知覚を時間/空間的に離れたところから解析する技術だけが不当に
解禁になっているにも関わらず、その事が神秘化されたり専横化されてなかなか情報
開示されないまま自殺に追い込まれている人とかが居るとして、
現象学なりカルトでない宗派の認識を主体に還すことによって、離人症化も精神病
認定も避けられるのじゃないだろうか、という事を思う。
         ♪
糸井重里にしろ茂木健一郎にしろ、何か憑依性精神病みたいな表情しているなという
気がし、素朴に気持ち悪い。
自明性を嫌って薄っぺらいオカルトにはまるのに何をしてるか知らないのだが、ある
種のオーソドックスさとか普通である感じも、それはそれで実感として強化されて
いいという気に。

         ♪
それだけはオーソライズしないと、というより、何だか70年代以前の単なる意識の
研究をみると、最初から独立した市民権的なものが色々あったのではないかという
気もする。
というより、市民社会自体が権力から監視される事も可視化される必要もないという
のがほんとは大前提の筈なのに、一部の人が完璧におかしいのだ。
 公器の盗聴がここまで問題にされない国というのもすごく気味悪いし、する側の
傾向も割れているような気がする。

         ♪
 行かなければいけない場所への道順をまずって到達出来ず、予定変更。
「抽象と感情移入」を、もしかしたらその古本屋にはあるのではないか、と思っており、
実際に行ってみて何冊も置いてある岩波文庫の中から見つけて感動する。晶文社の本と
幻想文学のラインナップも、その品揃え。
 道一本入ると単にアナーキーな(?)土地なのだが、書割みたいなものが貼りついていて
面白いなぁと感じる。どこかでコーヒーを飲みながら「抽象と感情移入」を読もうと思い、たぶん
「芸術における超越性と内在性について」というところから影響を受けたのだというようなことを
つらつらと。
         ♪
お仕事がお休みで久しぶりに散歩をし切った、という一日で、ふかひれ小龍包を食べたら
それで一日が終わってしまう。
・・・Setting sunは、Tomorrow never knowsだったんだなぁ、というのと、Let forever beもそうだが
ビートルズをテーマにしていても、それでどん詰まりになる感じがないなぁと思う。
それに引き換え、ものすごく不思議なのだが「ノルウェイの森」も「ヘルター・スケルター」も、
何で女性が身体でウダウダ病んだ暴力性を引き受けて内面的に自壊するか崩壊する話なのか。
そういうのが業界人のおっさんの趣味なんだとしたら、とても迷惑な気がするのだが。
       ♪
ゲイで、女を物色するのに電磁波で嫌がらせ・・・というの、何かその場で
死ぬとか不快な気分になる以上にうっとおしいし、私は自身はもっと普通の感覚でしれっと生きるのに
全く不足がないのは確実な事で、ともかくばっちいものは出来るだけ感覚野から排除しようと
思う。
 そんなものが東大の教授というのもあれなんだが、渋澤龍彦的な幻想文学の生存感覚の嫌さ
を、もっとしっかりフレーミングしようという気に。神経工学的な素材感にはかかっていない
ため、「意識」の領域で何か起きても全部奇想に吸収されてしまい、具体的な感覚の変容に
ついて、含蓄と思えるものに到達しない。
 それでいい年して幼児的な多形倒錯に塗れるのが不愉快な気がして、シュルレアリスム
形式を日本語で定立するのに、いわゆる「澁澤的な感じ」は取り除こうとした。そこから延々
書く事を邪魔されてきたのだなぁ、と感じる。
・・・すごい昔の事のように感じるのだが、奇想と関係なく日本語の内在的な力に依った意識に
ついての文学という考え方に、すごく拘っていたことを思い出す。
        ♪

形式とか精度はどうであれ、ご都合主義の二者関係を他に強いる時にだけ張り切るタイプの
作者とか評論家ってウザいと思うのだ。
 表象文化論科周辺、そんなのばかりなのだろうなぁと思う。単に黙って絵を見たりご飯
食べる時にもやっと能書きを言いそうで気持ち悪いのだが。
(20代に入って周囲から人形愛を教えられるとか、そういう耐えられないいびつさを
持て余してる感じばかりの気もするし、実際私が関わった表象文化論科はそういうタイプ
だった)。

          ♪
丁度ボイスプリントとかの瞑想的な音楽を聴いていた時と重なるが、何かメディウムとか
メディアという時に人間性みたいなものから確実に離れる事を重視していたような気もし、
あれは何だったのか、思い起こそうとする。

          ♪
東大の人でもハーバードの人でもないにせよ、人体実験まがいの事をされて食い下がりながら
思考している内容物としてはそんなに薄っぺらくないような気がしていて、逆に言うと言語化
抜きで思考拡散のストレスがゼロになれば、語学習得なんかは今からでも全く難しい事じゃ
ないよという気がする。
 それにしても何で私、これで原稿料もらえてないのか。数名、「あんたの原稿料70%位
私のでしょ??」って言ってやりたいんだが。

         ♪

 だから誰も死なないし全身整形で崩壊もしないんじゃないか、と思う。大体ビートルズ自体誰も自殺
してないし、周りの人もあんまり整形じゃなかったし(でもミスチルの「Tomorrow never knows」も
別に変な曲じゃない気がする)。どこかでリリースできる経路があればそれで済む話なのだという気がする。
 それなのに何故か特殊な事情でぐっちゃぐちゃになった女性に崩壊してもらいたい人たちが居て、投影で
病んだ人しか貰えず、未だに89年前後の文体に戻っちゃう訳である(そして一番嵩に着ているのは若くて
も50過ぎのおっさん)。おかしな話。ふざけるな、と思う。
・・・「Setting sun」は歌詞を見たら全身崩壊とかドッペルゲンガーに近かったが、それにしても新興宗教
絡みの教化オタクに一方的に絡まれて自殺は無い気がする。よく分からない。(実際はテクノとかトランス
だとそれもあるだろうが、とろいのが死ぬのだという気がする)。
・・・この数年でも、何だかそういう不可解な亡くなりかたのニュースがあった。何で放置されてるのか。
単に死ななきゃいいのじゃないか、と思うのと、はっきり内実を明示するのは一切駄目なのだとしたら
気分悪いという気に。
     ♪      「ノルウェーの森」は凄い小説なのかも知れないが、ビートルズに対してブリッド・ポップとか洋楽聴かないとミスチルとかあった訳であり、うだうだ悩んだ挙句アクロバティックなエロに暗い能書きが伴うというのは単に団塊より少し下の世代の人の嗜好でしょと思う。その嗜好を無理強いしてプライバシーがなくなったり変な霊性が持ち出されたりするのだ。全く凄い話だと思う。カルトのテロがあった国なのに。