うっかり/ヒナゲシ

 鞄に入れ忘れてしまい、「抽象と感情移入」を持って出れなかった代わり、元々入れっぱなしに
してあったディキンソンの詩集を読む。素朴にすごくいい。
 どうしょもない位マイナーな生き方には違いないんだろうが、単に意識の間から来るものとか言葉
に一瞬浸って、さっと具体物を拾い上げて書き留めて、という事を繰り返して、その分現実に対して
密着の甘い点がひとつぐらいあるのは、仕方ないことかもという風にも思う(にしろ、ほんと自戒を
込めて、読み飛ばしても仕方ないと思っていたのだが)。
 スカイツリーのごく間近まで行くけどあんまり関心なく、そのかわり職人芸みたいなものを興味深く
見る。ふーん凄いと思ってしまった。

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目を瞑って牛乳みたいなものが切子のコップに沢山注がれている所を思い浮かべる。クリアで
なおかつ立体的に、液体とか媒質がもののクリアさを際立たせる感じ。
色鉛筆で三色から四色位の星が描かれた平面も思い浮かべる。空の肌理を布にかき落とすように
なぞり描き。

                 ♪
異常な位自発的に、月二回は通ってた古本屋だし読むのに何の意味づけもしてなかった訳で、
16の頃と同じように一切煩わされないで本読めれば(自律してれば)、何かあんまりそれ以上
の事を望まないという気に(それで足りるだけのものを用意してくれるので、その古本屋の
周りの白々しくない、うるさくも対外的でもない空気を信頼してる気がする。少し行くと賑やかなところに出るのもすばらしい)。

               ♪
オブセッシヴな宗教からの強迫で全然別の心象風景がせりあがってくるとか以上に、
何か単純素朴にカルトきったねーなというのがあり、それはどうしょもない事の気が
する。
 相変わらず「糸井重里 宗教」とかで検索されることが多いが、端的にチーズケーキ
作りながら「トイレ行きたい」とか書く悪相の60代から雑貨とか食べ物とか買う気がしない
のが普通の感覚だと思うのだが。
 言い方は悪いが、精神薄弱とかちょっとおかしい人に分類していて、一生コミュニケーション取る気がないタイプが上から色々言おうとする姿勢のおかしさは何なのか。前出の占い師もそうなのだが、私はあんたになんて関わりたくないのよ、というのがしつっこく写真を真似たり言葉の端を捉えるの新手の公害という気がする。
いくら通信手段だの何だのが発達しようと、直覚にものが与えられてるそのかたちとかそういう話はまるで変わりない訳で、それを他人との疎通のツールにするつもりはないという気に。

40過ぎてアートだけで食べていく他ない人は(企業勤め出来ないとか)、まっとうな家族形成とか一切諦めるべき、という結構偏狭な考えの持ち主で、そういう向きの勘違いに厳しくしたい。

花の種ミックスを植えたら一番初めに丈の高くなったものがどう見てもポピーの一種であり、おそらく数日で
花が咲くが、路に咲いてるのと違う赤くて大きめの花が咲くといいように思う。
これと別に下の方へルピナスの葉の形が出てきており、通りかかった公園でカラフルに咲いていたのと見比べる。
(前回単体で植えて本葉が出る前に挫折してしまった)。


ディキンソンの詩集を読み終える。破調のある定型の美しさ。こういうの納得するのだという気に。
     ♪
ポピーの花弁はふんわりしていていい感じ。(初めて知ったが一次大戦の犠牲者に対する追悼のお花
なのだ。そういう挿話ばかり考えてることの引数にしても仕方ないにしても)。