外在/安定した空間/淵さん?

bobbinsmall2012-05-25

「抽象と感情移入」・・・やっぱり部屋で読んでるときの方が
分かりやすい感じだが、そういうもの(外在するもの)と安定
した素材感に戻るというのは基本なのだという気がする。

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 おかしいタロット占いの人その後。
 ・・・依然としてお告げをWebに載せてるのだ。けど、恐らく「さまざまな」と書こうとして、「だまざまな」
と書く時点で(2012年5月24日)、この人には誤字脱字神みたいなものがとり憑いているんではないか、と
思う。そして何故その人が(たまに)私の状況を折り混ぜて勝手に命運を占ってるのか、と思うと、何か伊藤潤二のホラー
漫画みたいに気持ち悪い(某漫画雑誌に紹介されてから気に入ってしまって、「サイレンの村」位までは買い集めて
読んでたのだが)。何か自分でタロットカード持ってきて占ったほうが、まだ精度が高いような気がする。
プロフィールをみるとまともな大学の心理学科を出た後いろいろと挫折し、不幸が重なって占い師になったようなのだ
が、日本語の構文能力がめちゃくちゃなところも凄いし(学歴をきれいに汚している)、何となくしっかりメイクした伊藤潤二の漫画の淵さんという登場人物のようにちぐはぐで怖い。そんな人と1時間対面なんてあり得ないし、無理に他人の命運を占おうとする時点で1万円取って他人にカウンセリングを任せているように思える。
 ・・・霊感とか呪いを主張する人間の、異常な位の図々しさの真髄を見るような気に。
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 ここ数年で雑誌に軒並みおまけがついているにしても、おまけや付録のウェイトが本体より高かったのは
大陸書房のオカルトの本とかがそうであり(※)、95年の事件までは在庫が新刊本屋にも沢山置いてあったのだが、
同じようなものを大真面目で流通させるのに正当な思想や哲学や科学とクロスオーバーさせないで欲しい
という気に。ましてや変な占いのサロンを開いたりしないで欲しいし、赤の他人を占わないで欲しい。
詐病的に自己の超越性を信じてる人が、采配を振るえる範囲に変な理論を振りまくのは
一向に構わないのだが、比較的オカルト不要の人の生体反応だの生活圏域まで汚そうとするのでおかしな話に
なるのだと思う。
※調べてみたら二見書房の本が多かったです。
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 もと全共闘の人たちは結局一回もカルトの事件を反省も検証もせずに、ほんと子供騙しというかあからさまに
おかしい感じのオカルト理論で全部を説明しようとしているのだ、と思うと、背筋がゾッとする。

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単に文物として化け物っぽさに拘っているだけなら構わないのだが、実存的なレベルで勝手にそれを引き受けて
挙句の果て逆ギレして他人の日常性にまで滲出する、というタイプのカルト好きが、大文字の道徳だの世論だの
を牛耳ると外すに外せないというのが面倒なところよねという気がする。
地震と化学物質によるテロが同時に起きた場合、やっぱり格段に迷惑なのは後者であり、当然そういう事する教団
を冷静に見てた人は新興宗教に躓きにくいだろうし、90年代半ばは一時的に(表面的には)そういうものに対する
リアランスが取れてた気がするのだが、でも超越性と反社会性とオカルトが未分化なまま雌伏していた人というのは
基本的にその状態のままだったのだ。だから付き纏った他人を犬に擬えたり「呪い」が思想の中核になってしまうの
だと思うが、端的にその人たちが触ってる変な儀礼に私は参加してないし、別に死ななくてもいいですよねと思う。
 糸井重里とか内田樹先生の実存感覚の汚さも、何か結局このあたりがクリアにならない世代特有の問題でしかない
ように思える。

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実存感覚が化け物っぽいというのが、ダイアン・アーバスみたいな感じではあるにしても、実は何かよく分からない。
レスリー・フィードラーの「フリークス」とかも好きだったことがあり、もう一度読み直したいのだが)
間が持たずそこに滞留出来ないのだが、オカルトにはまったり天命を受けるというのは一生そういう状態なんだろう
なぁという気がする。でも人間は単純に犬とか猫じゃないしよくも悪くも化け物じゃない気がするのだが。
そういうことを全部言葉で説明しないと、変な回路に入ったままそっちに持ってこうとする人が居る、というのを、
何か生々しく笑い事じゃないなと思う。笑い事なのだがそこで自己決定し抜き差しならない状況になったり自殺する
人も居るわけで、自分は全然そんなつもりないというのをどう説明すればいいんだろうか。
(写真はダイアン・アーバスのドラッグクィーン。こういう写真を撮りながら「感情移入」し、鬱病になった人も
居るんだなと思う)。
 ダイアン・アーバスすごいなと思う。(ほんの一時期だけのかさかさに凍りつきそうな絶望感とかと似ていて、
でもブラッサイに比べると完全に好きではなかった)。